「スラバヤの戦闘(15)」(2016年11月30日)

パラガンアンバラワ(Palagan Ambarawa)とインドネシア人が呼ぶアンバラワ戦でかれは、
べセル准将がAFNEI統治下に置こうとしたマグランとアンバラワからイギリスインド
軍第49旅団部隊を潰走させ、インドネシア共和国軍の意気を天下に知ろ示した。その勝
利の裏に、日本軍バニュマス守備隊指揮官から得た武器弾薬の支えがあったことは疑う余
地がないだろう。


AFNEI軍が動きを起こす場合、常にNICA軍がそこに付随していたようだ。それは
言うまでもなくかれらに相互利益をもたらすものなのであり、また連合国軍という名前通
りの中味になっていたわけで、何らおかしなことではない。しかしインドネシア人の目に
は、オランダ人の反独立行動を支援するイギリス人という形があからさまになっており、
狡猾で欺瞞に満ちたイギリス人に対する憎しみは日を追って強まっていった。

アンバラワとマグランの抑留所解放に進出して来たAFNEI軍は、解放した抑留者を武
装させて暴れるように仕向けた。さらに日本軍の武装解除のついでに共和国人民保安軍の
武装まで解除し始めたから、共和国人民保安軍上層部はたちまち態度を硬化させた。こう
して共和国人民保安軍とAFNEI軍との間での小規模な発砲や交戦が頻度を増すように
なる。


アンバラワからヨグヤカルタまでは百キロも離れておらず、ましてやマグランからだとわ
ずか40キロの距離だ。NICA軍がアンバラワ要塞を固め、あるいはマグランを占拠す
るようなことにでもなれば、人民保安軍総司令部が置かれているヨグヤカルタにとって大
きな脅威となるのは目に見えており、共和国側はそのことで神経質になっていた。

11月23日には大規模な戦闘が発生し、そのあとも小競り合いが続いた。AFNEI軍
は拘留した日本軍をまた武装させて人民保安軍に敵対させ、戦車をつけて人民保安軍の陣
地を攻撃させるようなことまでしたらしい。

29歳のスディルマン大佐はバニュマスから指揮をとっていたが、自分の片腕だった優秀
な部下を失ったことから、自ら戦場に出馬して来た。12月11日にはこのアンバラワ戦
に参加している全指揮官を集めて作戦会議を行い、12日午前4時半に総攻撃が開始され
た。そのときのスディルマンの作戦は「えびのはさみ」と名付けられたもので、敵軍を両
側面から激しくはさみこんでいく攻撃方法がとられた。両側面の最先端部は敵を包み込む
ように後方を遮断して、戦場にいる敵軍部隊が完全に包囲されたような形を示すが、実は
針の孔ほどの逃げ道を残しておき、失望した敵がやっと見つけた逃げ道から我さきに逃げ
るように仕向けるという人間心理の奥義を極めたような戦術が使われた。絶望させて死に
者ぐるいの反撃を受ければ自軍の損害が増える。アンバラワ戦は敵を殲滅させるのが目的
でなく、AFNEI軍をスマランに遁走させるのが目的だったのであり、スディルマン大
佐はその戦略を巧みに実行したのである。[ 続く ]

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