「スラバヤの戦闘(16)」(2016年12月01日)

独立宣言から5日経った1945年8月22日、スラバヤの街中に5万本の紅白旗が翻っ
た。現状凍結を命じられた日本軍の目の前でのことだ。だがその日以降、独立インドネシ
ア共和国成立のユーフォリアの中でスラバヤの市内は比較的平穏に時間が流れていったよ
うだ。


もうすぐ25歳になろうとしていたスラバヤ生まれのストモは、ジャカルタでアンタラ通
信社の記者をしていた。AFNEI進駐軍がジャカルタに上陸し、イギリス人が表明して
いることとは裏腹の動きをNICA軍が示していてもそれは放置され、インドネシア人が
それに武力で抵抗しようとすると、共和国トップのスカルノとハッタが外交優先を唱えて
国民に自重を呼びかけるというありさまに、かれは嫌気がさしていた。

共和国指導者たちはあまりにも軟弱ではないか?ジャカルタのあちこちに翻っていた紅白
旗は引きずりおろされてオランダ国旗に変えられていても、指導者たちは青年層に武力衝
突を避けるように言うばかりだ。せっかく独立共和国が誕生したというのに、国民は旧宗
主国の横暴なふるまいに身を竦めて沈黙しているしかないのか?


ところがスラバヤで胸のすくような事件が起こった。AFNEI軍進駐の情報が流れると
ともに、オランダ人抑留者たちが日本軍に解放を要求した。日本軍進攻前のあの良き時代
にまた戻ることができるとの期待に胸弾ませて、かれらは街に戻った。小奇麗でゆとりの
ある家に住み、原住民サーバントにかしずかれて贅沢三昧の日々を愉しみ、低賃金で雇え
るありあまる労働力で農園を経営し、オフィスビルで事業を営む・・・・。

ところが街に戻ると、自分の住んでいた家は別の人間が住み着き、街中は独立インドネシ
アの国旗が波打っている。「なあに、こんなものはオランダ行政府が復活して昔ながらの
統治に戻せば、すぐにしぼんでしまうに決まっている。一時のはしかのようなものだ。」
解放された抑留者の一部は、スラバヤ市内中心部トゥンジュガン地区にあるヤマトホテル
(旧名ホテルオラニエ、現在のホテルマジャパヒッ)に投宿して最上階のポールに9月1
8日夜21時、オランダ国旗を掲揚し、オランダの存在を誇示した。

翌19日朝、ここは独立インドネシア共和国領土だと市民や青年層が考えているスラバヤ
の真っただ中に翻るオランダ国旗を目にした民衆が続々とヤマトホテルに集り、怒りの叫
び声をあげた。事件を知ったスラバヤレシデン区のスディルマン副長官が側近ふたりを従
えてヤマトホテルに乗り込み、オランダ人グループのリーダーであるプルフマンを相手に
談判におよんだ。スディルマン副長官は大日本ジャワ軍政監部スラバヤ州の日本人長官を
補佐していた人物で、インドネシア共和国が発足したときも、そのままスラバヤレシデン
区の責任者としての職務を継続するよう命じられている。人民保安軍総司令官スディルマ
ン将軍とは別の人物だ。

スディルマン副長官はプルフマンにオランダ国旗を即座におろすよう要求したが、プルフ
マンはそれを拒否し、インドネシア共和国の存在すら否定した。議論は白熱化する。そし
てプルフマンが拳銃を抜いたために副長官の側近との格闘となり、プルフマンは喉を締め
上げられて死亡した。そのときの格闘で拳銃が発射されたために、ホテルの警備に当たっ
ていたNICA軍兵士が駆けつけ、プルフマンを殺害した側近を射殺した。[ 続く ]

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