「バタヴィア港(6)」(2017年08月04日)

四百年前にはじめてこの地を訪れたオランダ人が目にしたチリウン川は、今われわれが目
にするものとはまるで大違いのきれいに澄んだ水だった。16世紀末にジャヤカルタを訪
れたオランダ人の書き残した記録を読み返してみることにしよう。


この町の中央を流れる川の水は澄んでいてきれいだ。水夫たちはこの川の水を汲んで、船
に蓄えている。ジャヤカルタは低湿地だが、景観は美しい。チリウン川の支流に囲まれた、
河口に近い東西5百メートル南北およそ1千メートルの狭い四辺形の土地に築かれたこの
町は、民家ばかりか王宮までもが木と竹とそして竹で編んだ壁で作られており、ジャワの
他の町と同じように稚拙でみすぼらしい。

陸地はいくつかの島に護られた入江になっており、川には数百トン程度までの商船なら十
隻は入ることができる。そんな船はたいていマラヤ・中国・日本などからやってきたもの
だ。5百トンを超えるヨーロッパ船は海岸で投錨しなければならない。

住民たちはたくさんの鮮魚や干し魚を持って船まで売りに来た。町の周辺にある水田や豊
かなヤシの木、あるいはサトウキビなどは住民にありあまる食糧を供給しており、水夫た
ちもかれらから食糧を買うことができた。

王宮は四辺形の土地の東側に、川岸に沿って造られ、主要な門と門の間は竹矢来でつなが
れている。いくつもの大きな建造物からなる宮殿も竹と竹編み壁で造られており、屋根は
棕櫚葺きだ。王宮の北側にはジャワでアルナルン(alun-alun)と呼ばれている広場があり、
広場の周囲に設けられた市場には、朝夕物売りが商品を並べている。

王宮や市場に面した川の対岸(つまりチリウン川東岸)はプチナン(Pecinan)と呼ばれる
中国人居留区で、中国人は原住民のものより頑丈な家を建てている。中国人はレンガや瓦、
漆喰などの使われた住居に住んでいるが、その一方でおよそ2千世帯すなわち1万人ほど
いる原住民の住居は竹と竹編み壁で造られており、沼地の上はもとより地面の上であって
も、高潮や雨季の浸水に備えて立てられた竹の柱の上に構築されている。

町の外側は沼地とジャングルであるため住民の住居は川岸に集中しており、内陸部にはほ
とんどだれも住んでいない。なぜなら内陸部のジャングルはワニ・サイ・象・トラ・野牛
・大蛇・コブラ・ムカデ・ヒルなどの危険な生き物で満ち溢れており、原住民でさえよぼ
どのことがないかぎり、好きこのんで足を踏み入れるような場所ではないからだ。

原住民の成人男子はほとんど全員が短剣や竹槍で武装しており、王は領民から即座に4千
人を徴集できる。王宮に沿った川には王の持ち船が4〜5隻停泊している。それらの船は
ジャワでよく目にするものと類似の構造をしており、下は漕ぎ手、上は兵士が乗るように
なっているものと思われるが、停泊中の船は上部を覆って見えないようにしてある。

この町では良質のコショウがたくさん手に入る。ほかにも安息香・メース・樟脳・宝石な
どが交換されている。ポルトガル人はここまでやってこないので、取引はやりやすい。今
の王はコショウを年間三百袋しか売ってくれないが、将来はきっと、もっとたくさん増え
るにちがいない。


ジャヤカルタの町は現在のカリブサールとカリジュラケン(Kali Jelakeng)に挟まれた土
地にあり、パゲラン・ジャヤカルタが住む王宮は今のコピ通り(Jl.Kopi)と西カリブサー
ル通り(Jl.Kali Besar Barat)の交差点周辺だったように思われる。その北側の鉄道線路
辺りが市場になっていたようだ。

ジャヤカルタでももちろん交易は行われていた。安息香・ダイヤ・琥珀・エメラルド・翡
翠・陶器・沈香・絹布・真珠・大巻貝・極楽鳥の羽などアジアの珍品とともに、ヨーロッ
パで需要の大きいコショウもあった。ただ、いかんせん、ジャヤカルタはバンテン王国の
属領なのであり、いわば分家にあたるジャヤカルタが本家のバンテンを差し置いて繁栄す
るようなことを、バンテン王国が許すはずがなかった。

交易市場の規模は格段の差があり、そしてその事実がウィジャヤ・クラマの敵対心を煽っ
ていたのも、まちがいのないところだろう。[ 続く ]


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