「バタヴィア港(8)」(2017年08月08日)

このファタヒラなる人物は、別名をファディラ・カーン(Fadhillah Khan)あるいはファラ
テハン(Falatehan)と称し、スマトラ島北部にあった港市パサイ(Samudera Pasai)の王ス
ルタン・フダ(Sultan Huda)の息子だったという説が有力だ。ポルトガルが1521年に
パサイを陥落させたとき、かれは落ち延びてドゥマッへ逃れ、ドゥマッ王家の庇護を得て
スルタン・トランゴノの妹ラトゥ・プンバユン(Ratu Pembayun)を妻にし、ドゥマッ軍を
率いる将軍となった。ラトゥ・プンバユンは最初、チレボン(Cirebon)のスルタンである
スナン・グヌン・ジャティ・シャリフ・ヒダヤトゥラ(Sunan Gunung Jati Syarif Hidaya-
tullah)の息子パゲラン・ジャヤクラナ(Pangeran Jayakelana)に嫁いでいたが、ジャヤク
ラナが若くして没したため、未亡人になっていた。1524年にかれはさらに、シャリフ
・ヒダヤトゥラの娘、ラトゥ・ウルン・アユ(Ratu Wulung Ayu)を娶っている。

最終的にバンテン攻略軍はチレボンとドゥマッの連合軍となり、総大将がチレボンのスル
タンの息子シェッ・マウラナ・ハサヌディン(Syekh Maulana Hasanuddin)で、ファタヒラ
の指揮するドゥマッ軍はそれを補佐する立場に就いた。バンテン攻略戦は1526年に行
われ、イスラム軍が港と周辺領土を占領してそこをチレボン王国の領地とした。バンテン
王国が設立されてハサヌディンが初代スルタンの位に座すのは、しばらく後になる。


ファタヒラはその翌年、カラパ進攻を行い、カラパを征服してそこをジャヤカルタと改称
し、バンテンの属領と位置付け、自らその地の領主として経営に当たった。ポルトガルが
小国であり、人的資源が不足していたことが、ファタヒラに幸いしたようだ。ポルトガル
はバンテンよりもカラパに城砦を築く方針を立てていたものの、人手が足りなかったため
に大した軍勢を駐留させることも、城砦を築くことも延び延びにしていた間にイスラム軍
がカラパを奪取してしまったのである。1527年おそくにポルトガル船が城砦建設のた
めにカラパにやってきたとき、かれらを迎えたのは友好的なスンダ人でなく、攻撃態勢の
イスラム兵だった。こうしてポルトガルがマラッカに近いジャワ島西部に基地を持つ機会
は永遠に失われてしまう。

カラパがジャヤカルタになった日が1527年6月22日であるとの歴史家の説によって、
首都ジャカルタの創設記念日がそのように定められている。ジャヤカルタの版図は西のチ
サダネ川(Sungai Cisadane)と東のチタルム川(Sungai Citarum)にはさまれた領域で、南
はボゴール丘陵に接し、北は海岸線にとどまらず、プラウスリブまでがその領地に含まれ
ていた。


ファタヒラは1564年までジャヤカルタを統治したあと、バンテン王国のスルタン・ハ
サヌディンの女婿トゥバグス・アンケ(Tubagus Angke)に位を譲った。アンケは1596
年まで領主を務めてから、息子のウィジャヤ・クラマを後継者にした。

スンダ王国がどうなったかと言えば、バンテンとジャヤカルタからひっきりなしに押し出
してくるイスラム軍の攻勢にさらされてじわじわと領土を奪われ、遷都しながら抵抗を続
けてきたものの、スンダ王国最後のマハラジャとなったヌシヤ・ムリヤ(Prabu Nusiya 
Mulya)のときについに力尽き、1579年に全領土を失ってこのヒンドゥ王朝は崩壊し、
西ジャワのイスラム化が完成するのである。

バンテン王国がイスラム化した西ジャワの支配者となった。この歴史の流れを見る限り、
同じ西ジャワにあるとはいえ、バンテンと他のスンダ地方とは種族的文化的な違いが存在
することがわかるだろう。インドネシア共和国独立以来西ジャワ州の中にあったバンテン
が2000年に新州として分離したのは、そのような背景があったからにちがいあるまい。
[ 続く ]


「バタヴィア港」の全編は
⇒   こちら
でお読みいただけます。