「バタヴィア港(14)」(2017年08月16日)

バンテンの市街に隣接する東側のエリアは数百軒もの家屋が無秩序に建てられたスラムに
なっていて、ヨーロッパ人来航以前からこの地に流れ込んできた中国人を主体とする非原
住民居留地区になっていた。中国人がメインを占めたためにプチナン(Pecinan)と呼ばれ
て中国人居留区と認識されていたが、非中国人も混じっている。ヨーロッパ人や他の非原
住民はプチナンに住むよう命じられ、そこに家を借りたり、建てたりして住んだが、スラ
ムの名が示す通り住環境としては劣悪で、ヨーロッパ人はその環境を「悪臭を放つシチュ
ー」とあだ名した。

そのプチナンの中で、種々の民族が自己の儲けを追求し、邪魔になる他者を押しのけよう
として争った。特にオランダ人とイギリス人の対立抗争は激しいものがあり、ただでさえ
険悪な空気の中で暴力行為や悪事が頻発した。バンテン当局に敵を誹謗中傷する訴えを起
こして打撃を与えようとするのは日常茶飯事で、さらに原住民や中国人をそそのかして悪
事を働かせ、敵に損害を与えようとすることも行われた。

オランダ人はあるとき、イギリス人が商品を蓄えている倉庫の隣に住んでいる中国人をそ
そのかし、地下道を掘らせて倉庫を爆破し、商品を略奪させようとしたが、その企ては未
遂に終わった。一方、イギリス人はエリザベス女王即位記念日に総出で路上に出て酔っ払
い、通りかかったオランダ人にしつこくからんで怒らせ、相手が手を出したら大勢でリン
チするということを行った。原住民の子供にオランダ語の悪口を教え、「オランダ人に出
会ったらこう言え」とけしかけるようなこともした。そんなあれやこれやが積み重なって、
オランダ人とイギリス人が路上で出会えばまず確実に一波乱あるという状況に至ったので
ある。

バンテン王宮はスロソワン宮殿の城壁を強化し、警備兵の武力を高めて、治安と防衛力の
維持をはかった。ヨーロッパ人が通商を行うのはバンテンにとって有益なことだが、居留
者の中に勢力を強める者が出るのは王国にとって有害である。ヨーロッパ人はさまざまな
理由をつけて石造りの建物や倉庫の建設許可を願い出たが、王宮は堅固な建造物が作られ
るのを常に禁止し、木造平屋建てのものしか許さなかった。ヨーロッパ人はそんな条件下
に、建造物をできるかぎり頑丈なものにするよう努めた。

ヨーロッパ人同士の抗争は領内の治安に問題ではあるが、ヨーロッパ人の存在は通商面で
王国に大きな利益をもたらしている。そのアンビヴァレンツは当局者をして、抗争への介
入を熱心に行わない方向へと向かわせた。かれらが団結してバンテン王国に弓を弾くより
も、互いにつぶしあいをさせておくほうが、王国にとってははるかに安全なのである。
ヨーロッパ人の酔っ払いや盗み、役人への横柄な態度、モラルに欠けるふるまいなどに対
して、王国当局者は容赦しなかった。ヨーロッパ人への風当たりは他人種よりも特別きつ
かったらしい。だからヨーロッパ人商人や駐在員にとって、バンテンでの暮らしは居心地
の悪いものだったし、おまけにさまざまな熱帯病が簡単にかれらを墓穴の中に引きずり込
んだ。


オランダ人にしてみれば、好きこのんでそんな状況下に置かれているわけではない。バン
テンにいる限り、イギリス人とのすさんだ抗争の毎日であり、駐在する商館員たちはバン
テン当局に睨まれて委縮した日常生活を送らざるを得ず、おまけに王宮からはさまざまな
取引上の制約が課される。もっと自由で落ち着いた暮らしのできる場所、自由に動けてフ
ェアな取引のできる場所に移りたいとかれらが思うようになるのも、自然の成り行きだっ
た。そこにジャヤカルタの存在がクローズアップされてくるのである。[ 続く ]


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