「バタヴィア港(19)」(2017年09月04日)

ウィジャヤ・クラマはついに数千人の領民に武装を命じた。戦時警戒態勢に入ったのだ。
王宮と町の警備は厳重さを増し、チリウン川の王宮へのアクセスルートにはオランダ人が
ボーム(boom)と呼ぶ障害物が置かれた。オランダ語のボームとは木を意味する言葉で、そ
の名の通り巨大な丸太が川の流れと直角になるように置かれ、木をどかせないかぎり船は
前に進めなくなる。船から入港税や通行税を徴収する場所でこのボームは不可欠な設備だ
った。インドネシアでは水に関連する場所でBoomという単語を持つ地名があちこちに見つ
かる。

ウィジャヤ・クラマの軍事顧問となったイギリス人は熱心にその仕事を手伝った。その一
方で、イギリス人自身もカスティル対岸に設けたイギリス商館兼倉庫の完成を急いでいた。
そこには真鍮製の大砲を備えた陣地が同時に構築されつつあったのである。


属領のジャヤカルタで進展している波乱を未然に防ぐのはバンテンが当然行うべきことが
らであるという常識に反して、アリア・ラナマンガラはいかにその状況を利用して自分の
計画を実現させるかということを考えていた。ジャヤカルタ領主であるいとこのふるまい
にはもううんざりしていたし、ウィジャヤ・クラマの地位を保ってやる気もなくなってい
た。かれの気がかりは、畏怖すべき悪鬼の具現としか思えないクーンの去就であり、そし
てマタラム王国の拡張主義だった。東部・中部ジャワに覇権を確立したスルタン国マタラ
ムは西ジャワ地方を支配下に置いてジャワ島の統一をはかるべく、スンダ地方を虎視眈々
と狙っているのだ。


カスティルにいるクーンは参事会の同意を得た上で次の行動に移った。1618年12月
23日朝、オランダ側は川を隔てたイギリス陣地に使者を派遣して、陣地の構築と臨戦態
勢の即時中断を要求した。するとイギリス人は、「これはプリンスジャカトラに命じられ
て行っていることであり、われわれの独断でやめることはできない。」と返事した。

その日夕方、オランダ兵の部隊はカスティルから出てくると川を渡り、イギリス側の陣地
を攻撃した。さらに商館と倉庫に矛先を向け、破壊と略奪を行い、建物に火をかけて灰に
した。イギリス人はその攻撃を持ちこたえることができず、ウィジャヤ・クラマの王宮へ
逃げ込んだ。

一夜明けた24日、王宮の大砲がうなりはじめた。砲手がイギリス人だろうことは、機敏
な発砲と正確な弾着から容易に想像できた。オランダ人もそれにこたえて、カスティルの
大砲が王宮に向かって砲弾を吐き出した。夜になっても砲撃の応酬が続き、オランダ側は
たいした戦果も上がらないまま火薬備蓄量の4分の1を消費してしまった。その日の砲撃
戦でカスティル側はオランダ兵3名その他12名が死亡し、10人の重傷者が出た。

翌25日、ひとりの中尉と兵士7名がカスティルの外へ出撃した。かれらは中国人やジャ
ヤカルタ領民の居住区へ攻め込んだが、敵に取り囲まれて倒され、首をはねられてしまっ
た。乏しいカスティルの兵力がさらに減ってしまったのである。

クーンは緊急参事会を招集した。情勢は絶望的だった。この戦いに現状の兵力で勝利する
ことは考えられなかった。救いは、ウィジャヤ・クラマがまだ水路を完全封鎖しておらず、
またイギリス船隊がジャヤカルタに集結していなかったことだ。カスティルを捨てて、と
りあえず安全圏に避難するのなら、今がチャンスだ。速やかに人員・兵器・商品を船に積
み込んで逃走しようというのが大半の意見だったが、クーンはその案に同意しなかった。

持てる戦力をカスティルに集中させるため、クーンは周辺海域にいるオランダ船をすべて
カスティルへ呼び集めさせた。[ 続く ]


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