「バタヴィア港(28)」(2017年09月15日) このバタヴィア城市から外へ出る城門が南側の防壁に設けられて、警護兵が守りを固めた。 その城門の跡は大門通り(Jl. Pintu Besar)という名前で現代にまで残されている。バタ ヴィア城市の防壁の外側は、いつ原住民や野獣に襲撃されるかわからない、危険に満ちた 世界だったが、クーンは城市の防壁を防衛最前線とせず、もっと外側のアンケやアンチョ ルなどいくつかの場所に砦を築いて防衛線を構築した。その防衛戦略は10年後にマタラ ム王国の大軍を迎え撃ったとき、バタヴィアを守り抜くのに多大な貢献をしている。 だがクーンですら、この低湿地帯での水将軍の襲来には手を焼いた。雨季の豪雨や高潮の ために街中での浸水が頻繁に起こっている。その悪弊は現代まで持ち越され、ジャカルタ がなかなか洪水から縁を切れないでいる状況を裏付けているようだ。 バタヴィア城市の中央を流れるチリウン川、今のカリブサールによって町は東西に分断さ れ、東側と西側はただ一カ所の橋で結ばれた。その橋の位置は現在のインドネシア銀行博 物館の北側にあるJl. Bankの橋のようだ。 バタヴィア城市の西半分は中国人やポルトガル人など下層階級の居住地区で、肉・果実・ 魚などの市場もあった。川の西岸には倉庫が並び、コメ・砂糖・紅茶などをはじめ、入港 するVOC船舶のための補給物資も貯蔵されていた。 一方、東半分は富裕な支配者層の居住地区で、テイヘルスフラフツ(Tijgersgracht = 今 のチュンケ通りJl Cengkeh辺りに掘られていた濠)を中心にして高級住宅地区になってい た。そして、この町最大の目抜き通りもテイヘルスフラフツに沿ったプリンセンストラア ト(Prinsenstraat)であり、この通りはカスティルから下って来て市街に入り、バタヴィ ア政庁舎(Het Stadhuis Van Batavia = 現在のジャカルタ歴史博物館)の前庭広場に突き 当たる大通りになっていた。ゴシック様式のバタヴィア政庁舎は1626年に建設が開始 されて1627年に完成した。政庁舎の左側に教会が建てられたが、1629年のマタラ ム軍の攻撃で灰塵に帰した。 クーンの適切な勇気は、かれが任期を終えて帰国するまで消えることがなかった。クーン は自己の信ずるVOCの理想目指して闘い続ける戦士だった。会社の経営陣と現場の統率 者の間に理想に関してずれが起こることがあるのは、現代でも変わらない。 健康の、ましてや生命の保証すらない南海での勤務にやってきたヨーロッパ人にとっては、 手に入る報酬がすべてだったにちがいない。汚れていようがいまいが、金の誘惑はいたる ところにあったし、往々にして汚れている金のほうが大きく、そして早く動いた。そんな 腐敗と汚職に満ちた組織の中で、クーンは職務に忠実であり、忠実であるがゆえに過誤を 犯した部下を規律に照らして厳格に処分した。かれは情実に心が動かされる人間でなく、 冷めた理性と鋭い見通しがかれの鉄の意志を支えていた。 十七人会の中でも、クーンに対する評価は相半ばした。不屈の闘志と残酷さ、完璧な計画 性と集中力に対する薄情な人間味のなさ、部下に能力最大限の成果を出させる統率力の一 方で人情の機微に対する感受性の欠如、インスピレーションに満ちた天才かそれとも悪の 天才か、果てしない勇気かあるいは暴力と復讐の塊か、ふんぷんたる血の臭い、残酷な野 蛮人・・・・ クーンの上司だったピーテル・ボットはかれに好意的な上層部の一人だった。ピーテル・ ボットはクーンの人となりについて、信仰心に篤く、人柄は素朴で、勤勉で有能であり、 飲みすぎることもなく、会議での決断も早く、性格は陽気で、ビジネス感覚は明晰であり、 優れた会計士で、尊敬しうる青年である、と評した。[ 続く ] 「バタヴィア港」の全編は
⇒ こちら
でお読みいただけます。