「バタヴィア港(35)」(2017年09月27日)

1628年8月22日、カスティルに近い海上にジャワの船59隻が出現した。ジャワ人
武装兵や商人が5百人ほど乗っている。カスティルの中は緊張に包まれた。小舟が一艘、
城壁に近付くと、シャバンダルに告げた。「マタラムのスルタンがバタヴィアの生活用物
資の取引を命じたので、カスティルの中庭で市を開きたい。われわれは牛150頭、砂糖
5千9百袋、ヤシの実2万6千6百個、米1万2千袋を持参している。中に入るためにボ
ームを通過する許可をもらいたい。」

シャバンダルはクーンの判断を求めてから、翌日一隻ずつ順繰りにまず牛だけをおろさせ
るようジャワ人に告げた。


翌23日、20隻の船が順繰りに接岸して牛をおろした。他の船は沖で待つよう命じられ
たため、陸地に接岸したのはその20隻だけだった。カスティル守備隊の兵士百人が現場
に出て警戒にあたった。この特別市はたいへんな賑わいになり、バタヴィア住民は喜んだ。


24日には別の20隻がヤシ・砂糖・鶏・アヒルなどを運び込んだ。市は前日にも増して
の賑わいだ。ジャワ人たちは愛想よくふるまっている。

すると7隻の船が新たにやってきて、マラッカへ行く用があるので通行許可証を出してほ
しい、と求めた。

ポルトガル人のアジア支配ネットワークの要の一つであるマラッカへ行くためにスンダ海
峡からジャワ海の一部で制海権を手に入れたバタヴィアに航海の許可を求めるというその
理由をクーンは疑った。

不穏な空気をかぎ取ったクーンはすぐにバタヴィア城市の外に設けた砦に緊急命令を発し、
迎撃態勢を敷かせた。案の定、夕方になると、マタラム船20隻がバタヴィア城市から離
れた陸地に押し寄せてきて、大勢の兵士を上陸させた。マタラム兵の上陸は二波に渡って
行われ、攻撃態勢を取ってカスティルに接近してきたのである。

それに呼応して、カスティル内で市を開いていたジャワ人が突然、警戒にあたっていた守
備隊に襲い掛かり、カスティル内を制圧しようとしたために戦闘が始まった。明け方近く
になって、バタヴィア側は闖入者の襲撃を抑え込むのに成功した。双方に多数の死傷者が
出た。バタヴィアの町の住民も巻き添えをくい、特に中国人の被害が多かった。

カスティル内で起こった襲撃が成功していれば、上陸していたマタラム兵がバタヴィア城
市に突入してきて、バタヴィアは陥落していたかもしれない。いやもっと凄まじい大軍が
バタヴィア城市になだれ込んでいたかもしれないのだ。


続く25日、マタラム兵を運んできた船27隻が姿を現したが陸地には接近して来ず、大
砲の射程外の沖合に投錨して陸地を静観している。一方バタヴィア城市の南方およそ1.
5キロあまり離れた地区に、大兵力のマタラム軍が到着して野営した。大量の戦旗がたな
びき、喧騒が渦巻いているのが、城市の中でひしひしと感じられた。クンダル(Kendal)領
主トゥムングン・バウレクサ(Tumenggung Bahureksa)率いるマタラム第一軍がそれだ。町
の住民の大半がカスティルの中に避難した。

この大軍は3カ月かけて陸上を踏破してきた。マタラムの王都クルタ(Kerta)を発した軍
勢は北上してジャワ島北岸に至ると西に向かい、プカロガン(Pekalongan)〜トゥガル(Te-
gal)〜チレボン(Cirebon)を経由してから西ジャワの内陸部に入り、スムダン(Sumedang)
〜チアンジュル(Cianjur)〜パクアン(Pakuan = 今のボゴール)を通ってチリウン川沿いに
バタヴィアに近付いてきたのである。

バタヴィアは一日で陥落させると豪語していたトゥムングン・バウレクサは、計略を用い
た奇襲が失敗したことを知って残念がった。次の攻勢に出るための作戦計画を立てるにあ
たって、マタラム軍は敵の出方を見るべく、随所で小規模な攻撃を繰り返してオランダ側
の出撃を誘った。特にバタヴィア城市南東一帯での交戦を頻繁に起こした。マタラム兵は
上半身裸で、はだしだったという。[ 続く ]


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