「バタヴィア港(44)」(2017年10月10日)

1628年1629年のバタヴィア進攻は、二度とも勝敗がつかないままマタラム軍が引
き上げて行ったというように見える。1628年は雨将軍の到来にマタラムが敗れたとい
うことなのだろうが、1629年は一体どうしてマタラム軍が戦争をやめて帰還して行っ
たのだろうか?凄まじい火力を擁したマタラム軍がわずか半月ほどの戦争でバタヴィアの
街を瓦礫だらけにし、オランダ人を圧迫していたというのに、クーンが死去すると突然撤
退して行ったことの裏側に、どういう理由があったのだろうか?

インドネシアの歴史家の論調はすべからく、マタラムが敗れたと評している。しかしその
第二次侵攻を敗戦と呼ぶのは、正当なのだろうか?言い換えるなら、ジュミナのアディパ
ティ以下の遠征軍司令部が「自分たちは敗れた」という意識でマタラムへ帰還して行った
のかどうかというポイントにわたしは注目している。

加えて、戦後の動きを見ても、言われている論評とどうも一致していないような風情が感
じられるのである。1630年には、マタラムとバタヴィアの間で戦後談判が行われた。


ジャック・スぺクス総督はスルタン・アグンに対してあくまでも強い姿勢を取った。いわ
ゆる高飛車に出るというやつだ。スルタン・アグンは怒りをたぎらせ、もう一回遠征軍を
派遣して今度はバタヴィアを軍事占領し、オランダ人を踏みにじってやる、と決意したそ
うだ。そして第三次侵攻の準備に取り掛かった。

マタラム側の準備がジャワ島北岸地帯で開始されたという諜報隊からの情報を得たスぺク
ス総督は強力なVOC船隊を出撃させ、バタヴィアの東側にあるジャワの海岸線を総なめ
にするよう命じた。船隊はジャワの船を見つけると片端から撃ち沈め、町という町を襲撃
して焼き払った。その結果ジャワの民衆にオランダ人とオランダ人に協力するプリブミに
対する深い憎しみが植え付けられ、バタヴィア城市の壁から外へ出たオランダ人や農園作
業を命じられたプリブミたちが城市から離れた場所で襲われて殺されるという事件が頻発
するようになる。

一方スルタン・アグンの方も、遠征軍派遣を支えるための経済力が落ち込んでしまい、第
三次侵攻が実質的に不可能になったばかりか、支配下にあった諸領地のアディパティに対
する統制力も低下していった。かれにとっては苦難の時代が幕を開いたということだろう。
バタヴィア城市の外を覆っていた不穏な空気は、その後VOCがマタラム王国を政治的に
支配するようになってから徐々に鎮静化していき、南へ向かってのバタヴィアの発展が本
格化していくのである。


第二次侵攻がクーンの死で終わりを告げたのは、当時の常識として、戦争している敵国の
王あるいは支配者の死が敗戦を意味していたのではないかという推測を招くものだ。この
時代は普通、王が絶対君主なのであり、軍隊は王が戦争を命じるから戦争しているという
趣が強い。そうであるなら、王の死は軍隊が行っている戦争の根拠を消滅させることにな
る。

もうひとつのポイントは王位継承問題であり、たとえ皇太子/王位継承者が前から決まっ
ていてさえ、頻繁に内紛へと発展していく傾向を見るなら、王が死んだ敵国の後継者問題
に戦争に勝った側が介入して敗れた側の宮廷内人事権を握ってしまうということも起こり
えたにちがいない。そういったいくつかの要素が戦後談判の内容を決めていたのではある
まいか。だから戦争中に敵の王が死ねば、更に敵の軍隊を壊滅させるまで撃ち進んで行く
必要はなくなり、その先は戦後談判という外交にまかせて軍隊は帰還すればよいというこ
とになっていてもおかしくはない。[ 続く ]


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