「バタヴィア港(51)」(2017年10月19日)

しかし、せっかくハーフェンカナール東岸に港としての陸上施設がまとまったのもつかの
間、1885年末に完成したタンジュンプリオッ新港の稼働開始にあわせて、すべての施
設は9キロほど東に離れた新港に移転してしまう。


チリウン河口に設けられたバタヴィア港は、ジャヤカルタ港をそのまま引き継いだとはい
え、1619年バタヴィア誕生の当初から救いがたい難題を抱えていた。チリウン川が運
んでくる泥土問題である。港で船を接岸させるために絶えざる浚渫作業が余儀なくされた。
掘り揚げた泥土を周囲に積み上げて行くのは埋め立て作業と同じだ。船の通路だけ残して
周囲の海を埋め立てていくことでハーフェンカナールが形成された。

しかし帆船から蒸気船への移行が船の大型化をもたらし、スエズ運河が開通したことで船
会社は航海日数短縮による稼働回転率向上をビジネス運営の基本に置くようになる。ハー
フェンカナールが伸びて行けば行くほど、船会社には不満が鬱積することになった。沖に
停泊した本船と港の倉庫間をはしけがこまめに往復するが、その間の距離が遠ければ遠い
ほど時間がかかり、費用も増大する。雨季には貨物の水濡れ問題がそれに拍車をかける。

1869年のスエズ運河開通がバタヴィア当局者に抜本改善の決断を迫ったと言えるにち
がいない。ましてや新興のイギリス領シンガポールが交通と通商の王座を奪おうとして追
い上げてきている状況になっているのだ。バタヴィア当局は1867年に移転先の新港を
どこにするかについてサーベイを開始した。タンジュンプリオッが十分な水深のある大型
港建設にふさわしいというサーベイ結果に、バタヴィア港で活動していたほとんどの業者
が反対した。タンジュンプリオッに新たな港町ができれば、港湾活動に関わっているあら
ゆる分野に新しい競争相手が出現するにちがいない。カリブサールから港一円にある既存
の倉庫に、荷が入ってこなくなるかもしれない。客はこの一帯のオフィスにやって来なく
なり、直接タンジュンプリオッ周辺の新たなオフィス街に行ってしまう可能性が高い。と
ころが、かれらが一様に胸をなでおろすというハッピーエンドの結果となってそのコンフ
リクトは終わりを告げた。

「タンジュンプリオッにニュータウンなどできるわけがない。あそこはマラリアの巣窟で
あり、きわめて不健康な土地だ。あんなところに住んで終日仕事をしていたら、命がいく
つあっても足りない。」という風聞がバタヴィアの街を覆ったのである。

当局もそれに合わせて動いた。タンジュンプリオッとバタヴィアの街を鉄道でつなぎ、ま
た街道を整備して、新港はトランジットポイントにする方針を取ったのである。その結果、
港湾活動に関わるあらゆる業種がビジネス活動をカリブサール一帯で継続し、倉庫業も旧
バタヴィア港近辺にあったものがいつまでも継続して使われた。そればかりか、タンジュ
ンプリオッ港から南へ下ってくる街道さえ、長期にわたって作られなかった。

ジャカルタバイパスと通称されているタンジュンプリオッからチャワンまでの地表道路は
米国の援助金で作られたもので、1963年10月21日に開通式が行われた。それまで
タンジュンプリオッ港はアンチョル辺りと東西方向でつながっているだけだったというこ
となのである。


またまた余談でご容赦願いたいが、スカルノ時代に米国がインドネシアに援助金を与えた
ことを不思議に感じるひとがいるかもしれない。これはアレン・ポープ事件という名前で
有名なストーリーが発端になっている。

1958年5月18日、PRRIプルメスタ叛乱軍を支援して、米国CIAの一員である
アレン・ポープがB26でアンボンを空爆し、インドネシア国軍に撃墜された。負傷した
アレンは捕らえられ、尋問されて事情を明らかにしたことから、スカルノ大統領が米国に
談判をねじ込み、援助金をむしり取って来た、というのがその背景にある。

スカルノはケネディ大統領と交渉し、ハーキュリーズ10機とベル47一機、そしてタン
ジュンプリオッ〜チャワン間のバイパス27キロの建設資金を援助させたという話だ。ス
マンギ立体交差もその金で建設したという話もある。一方、アレン・ポープは刑務所から
ひそかに空港に連れ出され、「二度と世間に顔を出したり、おかしな話をしゃべったりし
ないで、姿を消してしまえ。そうすれば、われわれもあんたのことを忘れる。」とスカル
ノに言われて、ジャカルタを秘密裏に去ったと記されている。[ 続く ]


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