「バタヴィア港(終)」(2017年10月20日)

バタヴィア港が長い歴史の幕を閉じて、港湾機能がすべてタンジュンプリオッに移ったあ
と、ハーフェンカナール東岸はまた寂れた地区になった。とは言っても、カナールウエフ
沿いを往来していた旅行者たちの活気がタンジュンプリオッに移っただけということであ
って、それ以前からも通り沿いの建物からもっと東に入れば人家もない林と空き地と沼潟
ばかりで、その辺りからもっと東の、今のアンチョルドリームランドの方まではワニや蛇
やサルの住む世界だったから、それほど大きな変化でもなかったようだ。

一方、西側のパサルイカンの島では、魚市場の隣にヘクサゴン(Hexagon)と呼ばれた建物
が1920年に建設された。四つの建物が集まって六角形をなしていたためにそう呼ばれ
たらしい。その建物は海洋研究所として使われ、建物内には種々の生きた魚の標本が水槽
に収められ、水族館として一般公開されたため、バタヴィア市民の人気のある行楽先のひ
とつになった。水族館はインドネシア語でアクアリウム(akuarium)と言うが、ヘクサゴン
の建っていた地区は今でもアクアリウムという地名で呼ばれている。

水族館は1940年ごろ一度閉鎖され、1947年にまた再開された。1960年ごろに
また閉鎖されて、その当時まだ子供だったひとびとの思い出の中に生き残っている。


いまスンダクラパ港と呼ばれて観光スポットになっているあの場所は、歴史的見地に立つ
なら、バタヴィア港という名のほうが正確だろう。上で述べたように、あの場所が名実と
もに港になったのは19世紀後半だったのだから。ジャカルタがスンダクラパであった時
代、あの場所には陸地が存在していなかった。歴史家アルウィ・シャハブ氏によれば、ス
ンダクラパ時代の港は今のスンダクラパ港から7百メートルほど南だったそうだから、今
オムニバタヴィアホテルの建っている辺りのように思われる。そのオムニバタヴィアホテ
ルは2015年に売却されてデリヴィエル(de Rivier)ホテルと改名していることを付記
しておこう。

スンダ王国の王都パクアン(Pakuan = 今のボゴール)にもっとも近いカラパに港が開かれ
たのは8世紀で、この港と王都はチリウン川を経由して船が上り下りした。片道一泊二日
の旅だったという。王都の生活需要を満たすために近隣の36諸王国の船がカラパに交易
にやってきていたそうだ。


同じように、ジャヤカルタ港という名称も史実を正確に反映することにはならないだろう。
というのも、ジャヤカルタの町がチリウン河口西岸にパベアンやシャバンダルを置いて港
務を行っていたとはいえ、その当時もハーフェンカナールはまだ存在せず、あの場所は依
然として海の上だったのだから。

ただ、当時のチリウン河口はその後も、陸地が、そして海岸線がどんどん沖へ伸びて行き、
ハーフェンカナールが長さを増しても、港であることをやめなかった。スンダクラパがジ
ャヤカルタになって以来およそ3百5十年間、その港はチリウン河口に存在し続けていた
のである。

接岸荷役や上陸場所あるいは港務施設がキュレンボルフ要塞周辺のパエプヤンの地からパ
サルイカンの島に移り、最後にハーフェンカナール東岸へ移ったにしても、ハーフェンカ
ナールの根元に設けられた水域は、タンジュンプリオッ港が稼働し始めるまで、港の海と
しての機能を維持し続けた。


いま歴史遺産となっているスンダクラパ港にその名が冠せられたのは1970年代で、ス
ンダクラパという歴史的な名称はそれまでジャカルタのどこにも使われていなかったとの
ことだ。一方、ジャヤカルタという名称はかなり潤沢に使われていた。だからスンダクラ
パ時代から港であった(と見なされてきた)当時のチリウン河口にある港にその名が使わ
れたというのがそのネーミングの背景のようだ。史実とは別の角度から眺めた配慮が加え
られていたのは言うまでもない。

だからわれわれが心しなければならないのは、いまあのフィニシ船が集まっているスンダ
クラパ港埠頭が6百年昔のスンダクラパあるいはカラパの時代から生き残って来たものだ
という、ネーミングから誘発される短絡思考であるにちがいない。[ 完 ]


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