「南往き街道(56)」(2018年08月30日)

ファン・リーベーク第18代総督やヘンドリック・スワルデクロン (Hendrick Zwaarde-
croon)第20代総督はコーヒー栽培の拡張を目論んで、ボゴール〜スカブミ〜チアンジュ
ル一円をその対象地区にすることに努めた。

時の経過とともに、グヌングル(Gunung Guruh)地区に設けられたコーヒー農園は小規模
な居住区を内包しながら発展した。そのひとつが チコレ村だ。1776年にチアンジュ
ルのブパティ、ウィラタヌ四世がチコレにクパティハン(Kepatihan)を置いた。クパティ
ハンチコレ はグヌンパラン、チマヒ(Cimahi)、チフラン(Ciheurang)、チチュルッ(Cicu-
rug)、ジャンパンクロン(Jampang Kulon)、ジャンパントゥガ(Jampang Tengah)の6デ
ィストリク(Distrik)から成っていた。

オランダ人がやってきて周辺地域の土地を買い、自分の地所に農園を開くことが盛んに行
われるようになって、チコレもオランダ人の町の態をなすようになる。

VOCが振興させた西ジャワ地方の茶やコーヒーの栽培はまずスカブミ地区が中心地をな
し、それがおいおいバンドンやもっと東の方へ広げられて行ったというのがその歴史であ
るようだ。

バイテンゾルフが作られると、バタヴィア〜バイテンゾルフ〜チアウィ〜スカブミ〜チア
ンジュルというルートはVOCバタヴィアにとって重要な経済動脈路の意味合いを持つよ
うになっていく。


ダンデルス総督の有能なアシスタントを務めたアンドリース・デ・ウィルド(Andries de 
Wilde)はバイテンゾルフの副レシデンの職務を後にして1808年にコーヒー栽培監督者
としてバンドンに移った。そして1813年、かれはラフルズ、トーマス・マッコイド、
ニコラス・エンゲルハードと一緒にスカブミの広大な土地を購入した。北はグデ・パンラ
ゴ山系の南麓から南はチマンディリ川まで、西はバンテンとバイテンゾルフのレシデン区
境界線、東はチクパ川までというのがその区画だ。

そしてかれはその地名であるチコレをやめてスカブミという名前に変更するよう総督に要
請し、1815年1月13日に総督は公式にその地名をスカブミとする決定書を発布した。
スカブミ市はその日を創設記念日としている。[ 続く ]