「南往き街道(58)」(2018年09月03日)

パジャジャランスンダ王国が滅亡したあと、プラブ・グサン・ウルン(Prabu Geusan 
Ulun)王が1580年にスムダンララン(Sumedang Larang)王国を興してパジャジャラン
王国の後継者を名乗った。王都はクタマヤ(Kutamaya)で、現在のスムダン市の西方に位
置した。バンテンに服従したくない旧パジャジャラン王領の民がグサン・ウルン王に服属
したのも当然だったろう。

グサン・ウルンの妻のひとりはマタラム王家の娘だった。その息子ラデン・アリア・スリ
アディワンサ(Raden Aria Suriadiwangsa)が王位にあるとき、スムダンラランはマタラム
・チルボン・バンテン・バタヴィアの四勢力のはざまで窮地に陥り、王は母の意見に従っ
てマタラムに降った。時のマタラム王はバタヴィアへの軍事進攻を行ったあのスルタン・
アグンだ。こうして1620年以降、西ジャワの中ほどから以東はマタラム領となる。


スムダンラランをカディパテンのひとつに加えたスルタン・アグンは、バンテンとバタヴ
ィアに対する防衛線をプリアガン(Priangan)に敷く戦略を取った。プリアガン地方とは現
在のスカブミ・チアンジュル・バンドン・西バンドン・マジャレンカ・スムダン・ガルッ
・タシッマラヤ・パガンダラン・チアミスの諸県から成るスンダ文化の中心地帯だ。

ただその時代にマタラム王国が設けたカディパテンプリアガンという行政区域がカバーし
たのはスムダン、スカプラ、バンドン、リンバガンの各全域とチアンジュル・カラワン・
パマヌカン・チアスムの一部地域で、アリア・スリアディワンサはスムダンラランからプ
リアガンへ移封された。かれはランガ・グンポル(Rangga Gempol)一世としてプリアガン
のアディパティとなる。

ランガ・グンポル一世がスルタン・アグンから命じられてマドゥラ島のサンパン攻略戦に
従事しているとき、プリアガンがバンテンの攻撃で大敗を喫したために父王の代理の任に
就いていた王子がスルタン・アグンの怒りを買ってマタラムに虜囚されたことがある。そ
のとき、プリアガンの領主に格上げされたのが南バンドンのクラピヤッ(Krapyak)を根拠
地にバンドン地区を治めていたディパティウクル(Dipati Ukur)で、かれは1629年のマ
タラム王国第二次バタヴィア軍事遠征にかり出されている。[ 続く ]