「プレセタン(2)」(2018年09月13日) プレセタンとは概ねそのようなものだが、言語が異なればおのずとその言語特有の色合い がこの遊びに使われることになる。はたして、インドネシア語ではどのようなものになっ ているだろうか? 言語学界の定義でなく、もっと実際的な意味合いをインターネットで調べると、次のよう なものに出くわす。 * 故意にねじまげられた言語スタイル * というのがインドネシアでプレセタンと呼ばれている事象を説明する全般的包括的な定義 ということになるらしい。しかし諸外国でパロディと呼ばれている知的遊戯すらインドネ シア人はプレセタンと呼んでおり、音楽や芝居まで含まれるなら言語という枠内に収まり きらなくなる。 ともあれ、このプレセタンを社会学的修辞の面から解説したインドネシア人の論文がある ので、それに従って内容を見て行くことにしよう。プレセタンは社会事象に対して非直接 的な批評を与えるユーモアをベースに置いており、きわめて高度な知的産物だと論者は定 義付けている。 言語は文化の産物であり、文化はそれに依拠し、且つそれに乗って伝播される。言うなれ ば言語は文化そのものを映し出している鏡であり、言語の発展生育は文化の発展生育にほ かならない。語彙が増加し、論理性を踏まえた表現力が向上することは、文化の精緻化で あると言える。 昔なら、地方語や外国語を持ち込んだり、既存単語を融合させたり、せいぜい接辞を用い て新造語が作られる程度だったものが、もう数十年に渡ってバハサガウルという新系統の 言語が国民の間に普及し、新造語は日進月歩で増加する勢いになった。国語学界はバハサ ガウルを標準インドネシア語破壊行為であるという立場に立ってその現象に対処している ものの、国民の言語に対する感覚はオーセンティック一本槍で進んできた時代には想像も できなかったほどに鋭敏で柔軟なものに変わっているとわたしは見ている。 行政面からの「オーセンティックだ」「フェークだ」といった価値観に縛られない自由さ が文化をこれほど進化させている例は、世界にも稀なのではないだろうか。 ちなみに、バハサガウルについては2018年1月に10回連続で「ガウル」と題する記 事が掲載されているので、ご参照いただければ幸いです。 http://indojoho.ciao.jp/newsmenu1801.htm [ 続く ]