「バニュワギの歴史(1)」(2018年10月10日)

パランカン(Palangkan)の村はブランバガン湾口の右側を内陸部に1リーグ入った場所に
ある。村は小さい川で二分されている。1805年2月13日に地域首長ユドヌゴロ(Yu-
dhonegoro)がトンブ(Tombe)将軍率いる遠征軍を訪問した。

イギリス統治時代のジャワ島でイギリス軍がブランバガン(Blambangan)への踏査行を行
ったときの様子を、イギリス人文筆家ジョン・ジョセフ・ストックデール(John Joseph 
Stockdale)がその著作の中でそう書き残した。


ブランバガンはバニュワギの昔の地名であり、ジャワ島のイスラム化が進展する中で、最
後まで非イスラムの砦としてイスラム化に抵抗した王国だ。

当時のバニュワギは火山の噴火による自然環境の汚染で病気が蔓延しており、更に遠征軍
は毒性の強まった川を渡ったり、どう猛な野獣の住む草原を越えなければならなかった。
おまけにその地域は犯罪者の流刑先でもあったのである。

遠征軍のブランバガン上陸は困難で危険な行軍だった。しかしこの地の豊かな文化遺産と
外国人に対する友好的なもてなしが厳しい軍旅を温かく愉しいものに変えた。ムラユのコ
メディ・ガムラン・バイオリンが遠征軍を慰め、コーヒー・茶・シリ・西洋料理・地元料
理がひとびとの舌を揺らせた。小さい村を訪れたとき、山の民と名乗る村人たちはトウモ
ロコシや焼き鶏、ジンに似たアルコール飲料などを訪問者に提供した。

そこに描かれているバニュワギの地元民は、ジャワで高い知名度を持つダマルウラン
(Damarwulan)説話に描かれたブランバガンのムナッ・ジンゴ(Menak Jinggo)王率いる悪
逆非道の一統とは似ても似つかないありさまを示している。敵対する相手を非人間呼ばわ
りし、正義はわれにあると唱える精神性は、日本を含めて世界中の民族が歩んできた道だ。
もちろんダマルウラン説話は史実にもとづいたものでなく、ハヤムルッ王の没後起こった
マジャパヒッ王国の後継者争いで、東王宮を作った妾腹のブレ・ウィラブミに反対する勢
力が東方の野蛮な田舎者をかれになぞらえて作った物語というのが定説になっている。

バニュワギの民も黙ってはおらず、ダマルウラン説話に対抗する物語を作った。そこに登
場するムナッ・ジンゴ王は人情の機微と正義感にあふれる人物として描き出されている。
[ 続く ]