「バタヴィア号難破と殺戮の合理性(1)」(2018年10月15日)

ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがバタヴィアに設けたカスティルの海からの入り口に、
かれは美麗な大門を建てることを考えた。しかし石造りの壮麗なポルチコを誕生したばか
りのバタヴィアで作るのは無理だ。かれはVOC本社にそれを作って送るように要請した。

組み上げれば高さ7メートル奥行き4.4メートルになるポルチコは50cmX90cm
の石材137個から成っている。その37トンのポルチコアッセンブリーは1628年1
0月29日にテスル(Texel)港を出帆する予定のバタヴィア号に積み込まれた。更にバタ
ヴィアVOCのための商品である大量の布や陶器、そして銀貨25万枚なども積み込まれ、
乗組員と派遣社員や兵員など341人が乗り込んだ。そのうちの38人は女子供であり、
また会社と雇用関係のない一般旅行者も混じっていたようだ。

これは全長46メートルの船体に24門の大砲を装備する新造の大型木造帆船バタヴィア
号の処女航海である。バタヴィア号は8隻から成る船隊の旗艦としてその壮途に立った。
航海指揮官にはVOC上級商務員フランシスコ・ペルサート(Francisco Pelsaert)が任じ
られ、船長はアリアン・ヤコブス(Ariaen Jacobsz)が務めた。

ところがこの船隊は北海で嵐にあって、旗艦に随行する船は二隻に減ってしまう。三隻の
船隊は大西洋を順調に南下して喜望峰を回ったあと、ふたたび嵐に襲われたためにバタヴ
ィア号はついにインド洋の単独航海を余儀なくされた。それでもともかく、バタヴィア号
はオランダ船が通例取っているインド洋の真ん中を突っ切る航路に入ったのである。

オーストラリア大陸にかなり近づいてきた1629年6月4日、バタヴィア号は岩礁にぶ
つかって船腹が破れ、海水が怒涛となって船内に流れ込んできた。甚だしい重量物を積ん
でいるバタヴィア号は、海上に浮かんでいるかぎり風浪に対する安定性が高くなるわけだ
が、海水が流入すればそれがかえって災いになる。

この事故は、船長が酔っ払って未知の海上に対する警戒を怠ったためだという話もあれば、
夜間だったために未知の海上の識別が不十分になったのだと不可抗力に結び付けようとす
るものもあって、プロ&コントラの二説が飛び交っている。

ペルサートの自著には、1629年6月4日(月)バタヴィア号の位置は南緯28〜28.
5度。岩礁に衝突して船腹の一部が破壊され、40人が海にさらわれ、大量の海水が船内
に流入し、船体が割れて沈没した、とそのときの状況が語られている。[ 続く ]