「バタヴィア号難破と殺戮の合理性(2)」(2018年10月16日)

ただし船が完全に沈没したのは9日後であり、ひとと持てるだけの荷物を近隣の島に移す
余裕は十分にあった。さっそく翌朝から、船に備えられているカッターを使っての避難が
開始された。船からおよそ2キロ離れた島への移動が終わったあと、近隣の状況を調査し
た指揮官と部下たちは、飲食のための天然物資がまったく手に入らないことを確認した。

みんなが生き延びるためには、そこから60キロあまり離れたオーストラリアの本土に渡
るか、それとも3千キロほど離れているバタヴィアへ救援を求めるかのいずれかだ。他の
方策は考えられない。

オーストラリアの本土はまったく未知の世界であり、水や食料の有無からどのような危険
が待ち受けているかまで、まるでわからない。未知の世界に入って生存条件を確保してか
らバタヴィアへ救援を求めるか、それとも直ちに救援を求めるか、という選択に指揮官ペ
ルサートは決断を下した。

その夜、航海指揮官ペルサートは47人の男たちを伴ってバタヴィアへ救援を仰ぐために
事故現場を去った。船長ヤコブスもその一行の中に含まれていた。


ペルサートの一行は22日かけてジャワ島中部南岸のヌサカンバガン(Nusakambangan)
に達し、そこで上陸したあと陸路を11日かけてバタヴィアに到着した。バタヴィアで一
行を迎えたクーン総督はすぐペルサートにサアルダム号を委ねて、救援に赴かせた。船長
ヤコブスはペルサートの報告によって逮捕され、獄舎につながれた。

サアルダム号が事故現場に到着したのは1629年9月17日のことだった。そしてペル
サートはその間に何が起こっていたのかをわが目と耳で実見聞した。一部の叛乱者によっ
て96人が虐殺されていたのである。救援隊は生き残っていた154人を収容してバタヴ
ィアへ向かった。

別の出典によれば、叛乱者が殺害したのは125人で他に病死者が20人あったと書かれ
ている。また叛乱に加担したため、ペルサートが現地で処刑した者も何人かあったようだ
から、信頼するに足る正確な数字は曖昧模糊としている。[ 続く ]