「マゼラン世界周航五百年(2)」(2018年10月30日) インド進出の動きが展開されている中、次のターゲットであるマラッカ獲得の動きが開始 され、1509年にロペス・デ・セケイラ率いる小船隊が初のマラッカ訪問を実現させた。 セケイラはマラッカのスルタンと貿易協定を結び、商館を設けるために部下の一部を上陸 させていたが、インドでポルトガル人が何をしてきたかを知っているマラッカ在住のイン ドやジャワのイスラム商人たちがスルタンに力ずくでポルトガル人を打ち払うよう密かに 進言し、進言を取り上げたスルタンが不意打ちの夜襲を行なった。その結果、セケイラの 船隊はマラッカ脱出を余儀なくされ、陸上に取り残されたポルトガル人は捕虜となって投 獄されたのである。 ゴアの第二代インド副王アルフォンソ・ダ’アルブケルケは1511年、自ら16隻の船 団を率いてマラッカに向かい、圧倒的な軍事力でマラッカを陥落させた。マラッカはポル トガル領にされ、更に東や南に向けて探査と征服行動を行うためのポルトガルの前進基地 となった。いよいよ香料諸島に王手をかけるための環境が整ったのである。 香料諸島を目指すそんな流れの中で、マゼランと従兄弟のフランシスコ・セハウン (Francisco Serr?o)は早い時期からその国家プロジェクトを推進するひとびとの中にいた。 インド航路が発見されたあと、インド洋の覇権を手にするべくポルトガルが1505年に 派遣したフランシスコ・デ・アルメイダの20隻の船隊の中に、ふたりの姿があった。 香料諸島からジャワ海〜マラッカ海峡を通過し、インド洋北岸の諸港からペルシャ湾岸や アラビア半島の諸港に流れる、スパイスロードと呼ばれるその海上交通路に割り込んでき たポルトガル人を、既存商権を守ろうとする地元諸侯が単独あるいは同盟を組んで排除し ようとしたため、インド洋での戦争が続けられた。ポルトガル人はインド洋の制海権を確 保するかたわら、マラッカをおさえるために次の手を打った。[ 続く ]