「マゼラン世界周航五百年(4)」(2018年11月01日) マラッカはかれを通じてテルナーテ王国との関係を深めて行った。友好通商協定が結ばれ てスパイス入手と軍事基地の強化が進められ、スルタンの思惑から外れた支配被支配関係 がいつのまにか両者の間に強まっていく。 テルナーテのスルタンがいつになって自分の愚かさに気付いたのかよくわからないが、ど うしようもない状況に至ってかれは憎しみをポルトガル人、中でもその立役者だったセハ ウンに向けたようだ。もっとあとの長い時代に次々にやってきたヨーロッパ人の硬軟織り 交ぜた手練手管によって地場支配権を簒奪されるようになる東インド諸島の事始めがこの 不運なスルタンだったのではあるまいか。 セハウンは1521年にテルナーテで不可解な死を遂げたことが記録に残されている。そ れをテルナーテのスルタンによる毒殺だったとしている説もある。その説を決して不自然 なものに感じさせない軋轢の存在は容易に想像し得るものであるにちがいない。 テルナーテでセハウンに会うためにはるばる大西洋と太平洋を越えてやってきたマゼラン が一歩手前のフィリピンのマクタン島で1521年4月に死を迎えたのと、セハウンの死 はあまり大差ない時期だったそうだ。奇遇と言えば言えなくもない。 ともあれ、スルタンがセハウンに操縦されている間のテルナーテ王国を根拠地にして、ポ ルトガル人がモルッカ諸島の物産をできるかぎり自分たちの手中に収めていた十年間、リ スボンは大いなる繁栄にうるおった。そのころセハウンが故国のマゼランに宛てて送った 手紙には香料諸島の様子が詳しく記されていて、香料諸島への夢をマゼランの心に掻き立 てることになるのである。 帰国していたマゼランはモロッコで軍務に就いたが不慮の陰謀で評判を落とし、1514 年以降、船に乗り組む誘いは一切、かれのところに来なかった。そのうちにセハウンから の手紙が届き、香料諸島への夢を確信したかれは太平洋を渡ってテルナーテへ向かう航路 を開く方が良いことをポルトガル王に献言した。そのための船と乗組員をわたしに与えよ ということだ。ところがマヌエル一世はそれを言下にはねつけた。[ 続く ]