「若者たち(1)」(2018年11月12日)

青年あるいは若者という言葉はどのような年代を指しているのだろうか?それは大人と子
供というカテゴリーの線引きにどのように関わっているのだろうか。

インドネシア語では、大人をdewasa、子供をanakと呼ぶ。大人という語は社会が成人と認
める人間に対して使い、そう認められない者に対しては子供の語が与えられる。そこに個
性とは無縁の年齢という要素が加えられると、凄まじい混乱が引き起こされる。

KBBIでdewasaの定義を調べると、kanak-kanakやremajaの時期を超えた、物事に対す
る分別を身に着けた者という語義が出てくる。そして、性的成熟に達した者という語義が
続く。一方のanakは「まだ小さい者」となっている。

kanakの定義は学齢前の発育段階にある子供とされ、幼稚園をtaman kanak-kanakと表現す
る熟語に強く関連付けられている印象がある。その時期の子供を指してanak usia diniと
いう表現もよく使われ、anak usia diniは3〜6歳だという説明を見出すことができる。

幼児期の子供については他に年齢で括るbalita (= bawah lima tahun 五歳未満)やbatita 
(= bawah tiga tahun 三歳未満) もよく使われている。


するとkanak-kanakからremajaを経てdewasaになるというKBBIの定義はどこか奇異な
印象を感じることになる。なぜならremajaの語義が大人になり始めた者、結婚年齢に達し
た者、という定義をKBBIが与えているのだから。

これを南洋の早熟社会の特徴と見ればよいのだろうか?幼児期を超えるとたちまちのうち
に性的成熟が進行し、セックス面における結婚可能な状態に成長する。そしてセックスを
婚姻制度の中に封じ込めようとする社会が、物事に対する分別をどのレベルまで身に着け
たのかということへの斟酌よりも、社会規範の混乱を防ぐために性的早熟者をどんどん大
人扱いされる階層に加えて行った歴史をわれわれにそこはかとなく感じさせてくれること
になる。そのあり方が児童婚というものに対するきわめて肯定的な感覚を社会構成員の中
に伝統として育んできたのではあるまいか。

remajaの同義語にアラブ語に由来するakil baligという言葉がある。KBBIではその定
義を、善悪の分別がつけられることとし、年齢は15歳以上とされている。[ 続く ]