「ポルノ、其二(後)」(2018年12月14日)

ガイドがあれは火だと教えると、客はいぶかしんだ。客の文化体験では、火というのは赤
いものであり、黄金の色の火などありえないそうだ。モナスのてっぺんが象徴するものと
アイスクリームの関係というのが、その米国人に起こった記号現象だったのである。

モナスのてっぺんの黄金の火はその米国人の体験に照らして、「ああいうものは、わたし
の人生においてはアイスクリーム」だったということなのだ。われわれが読むもの、見る
もの、聞くものは個々人の体験と見地から解釈されるのである。


ブルーフィルムやポルノ小説を別にすれば、エロティシズムとポルノグラフィの境界線は
外側から見る限り、はっきりしない。なぜなら、プロセスは個々人の頭の中にあるのだか
ら。わいせつはわれわれの思考と体験から生まれるのである。

ポルノアクションに話を移すなら、問題は激増する。そのターゲットになるのは女性が圧
倒的に多い。踊りや服装がその言葉のターゲット語義なのだ。概して、女性が問題にされ
るのである。クトゥバル型クバヤを着たジャワ女性は、乳房の割れ目の一部を見せるがた
めに、ポルノアクションを行ったと断罪される。バストの大きな女性が胸が浮き彫りにな
るような服装をしたら、いったいどうなることか?

われわれが中東の女性を目にするとき、顔を覆っている布の裏に隠された目を見る機会を
得たなら、それがあまりにもエロチックで、色欲をかき立てることを覚るだろう。ところ
がパプアにいるわれわれの兄弟たちの、男はコテカを着用し、女は胸をさらけ出している
姿を目にして、われわれはどう感じるだろうか。われわれの見地におけるわいせつな記号
現象として描くとき、それらのすべてはポルノグラフィとなりうるのである。

倫理警察官の頭の中にはどのような記号現象が起こるのだろうか。予測は困難だ。ポルノ
グラフィと密接な関連を持つポルノアクションの定義はきわめて煩雑になることだろう。
問題は誰が搾取者かということだ。ブルーフィルムやポルノ小説の誰かなのか、それとも
記号現象の故にわれわれ自身になるのだろうか?

一般的に、われわれはふさわしいものとそうでないものを区別することができる。それは
われわれ個々人の文化の中で統御されている。それが多様性を持つこのヌサンタラで一様
に適用される法律の中に記されたとき、別の問題が生じるのである。[ 完 ]