「アッラーはすべての神(後)」(2019年01月25日)

インドネシア語ではどうなっているだろうか?一神教から多神教へ文脈を移す場合には、
どの単語が使われるべきだろうか。もしわれわれが旧約聖書の内容でユダヤ教聖典と同じ
内容になっている部分を翻訳しようとするとき、この問いへの回答は急を要するものにな
る。もしユダヤ教が本当に史上初の一神教創始者であったのなら、当時まだ多神教の教徒
だった他民族とユダヤ教信徒の間に頻繁に議論が沸き起こったことは疑いもない。その様
子はかれらの聖書に明白に反映されている。われわれはそれをどのようにインドネシア語
に翻訳すればよいのだろうか?インドネシアバイブル協会の翻訳聖書1976年版には、
一神教の文脈でAllah、多神教の文脈ではallah-allahもしくはallahが使われている。し
かしそれは必然的なものなのだろうか?Allahの語は本質的にmonotheism性向を持ち、そ
れゆえに複数形にすることができない。多神教の文脈におけるgodsをallah-allahと翻訳
すると、一種の矛盾が起こる。

いくつかの例をあげてみよう。
出エジプト記20章3 Jangan ada padamu allah lain di hadapanKu
II歴代誌2章5 Sebab Allah kami lebih besar dari segala allah
ヨシュア記24章2 Mereka beribadah kepada allah lain
詩篇95章3 Allah... mengatasi segala allah
詩篇136章2 Allah segala allah

多神教の文脈においてdewaやdewataを使うなら、困難から逃げ出す道はある。それらの
言葉は「真正でない」というコノテーションを持っているのだ。しかしかえってそのせい
で、それらの言葉が適切さを欠くこともある。上述の出エジプト記20章3をJangan ada
padamu dewa lain di hadapanKuとすることはできない。なぜなら、一神教のAllahもde-
waのひとつになってしまうからだ。多神教的文脈にはilahを使うほうがよい。この語彙は
インドネシア語になっているのだが、ほとんど使われていない。その形容詞形ilahiのほ
うが、一神教的な文脈でも多神教的な文脈でもたくさん使われている。ilahであれば、上
で引用したすべての例文で、多神教的意味合いにおけるallahに置き換えることができる
のである。[ 完 ]