「無神論者」(2019年02月01日) ライター: ジャカルタ国立大学言語教育学修士、ムリヨ・スニョト ソース: 2009年6月19日付けコンパス紙 "Ateis" アテイズムがひとを魔術にかけるものと言えなければ、それはひとを魅了するものなので ある、ということをわが友人ダヌ氏はわれわれに確信させようと努めた。「アマルティヤ ・センはアテイストだ。」とかれは言う。数々のノーベル賞を受賞したその人物の思想を 縦横にひもといたあと、「しかしながらKBBIのおかげで、私はこの国でアテイストに なるのが恥ずかしい。」という言葉をかれは述べた。KBBIとは教育文化省国語センタ ーのインドネシア語大辞典のことだ。 かれの説明はこうだ。アテイストの語義をKBBIは「神の存在を信じない人間」として いる。その語義はAS ホーンビー著Oxford Advanced Learner's Dictionary of Current Englishに記されているatheistの定義、person who believes that there is no Godと、 語義論的語形論的に異なっている。つまりそれは「神が存在しないことを信じる人間」と いう意味なのだ。 KBBIの語義分析には錯綜が見られる。そのひとつは、theisに添えられた副詞a-の形 態上の意味を動詞percaya(信じる)の前に置いた辞書編纂者の誤りに由来するものだ。 これは最も正確な翻訳作法原則から外れている。 こうしてKBBIでは信じるか信じないかの問題が語義の焦点に置かれることになったが、 オックスフォード辞典は神が存在するか存在しないかの問題を焦点に据えている。テイズ ムかアテイズムかという核主題は神の存在に関する問題なのであり、人間の精神状況とは 切り離された問題だ。テイズム信奉者もアテイストも、同じように信念と信仰心を持って いるのである。双方は同じようにそれぞれのドグマから出発している。かれらの間の違い は、神が存在するかしないかという一点にしぼられている。 KBBIとオックスフォードの微細なニュアンスの違いを、「信じる」という動詞を「感 じる」という語に代えて見てみよう。そして表現者の視点を一人称に?移してみる。 KBBIでは「私は神があると感じない。」となり、オックスフォードは「私は神がない と感じる。」となる。KBBIの文構造からは、神の不在は主体者の感受性(往々にして 信仰心の深さと解される)に起因しているという理解に傾きがちだ。ところがオックスフ ォード式だと、主体者は積極的(肯定的)に神は不在だと感じているのである。もし動詞 「感じる」を更に「考える」に置き換えたなら、KBBI式はますますアテイストの知性 を低レベルに突き落とす効果を発揮する。「わたしは神が存在すると(いうことを)考え ない。」 「えっ、考えないだって?なのに『神は存在しない』という結論が出て来るの?そりゃ、 いったいどこからどうやって・・・?」 オックスフォード式の「私は神が存在しないと考える。」と比べてみるがいい。 主体者は考えることによって神が存在しないという見解に達するのである。各時代の知識 層の思考活動がアテイズムを生み出した歴史的事実を見るなら、それは当たり前のことだ。 「アテイストとテイズム信奉者の違いが分かったかな。」ダヌ氏は話をその言葉で締めく くった。そして仲間たちの返事を待たずに、こう述べた。「前者になるためにはまず考え なきゃいけない。後者になるには、考えることは後回しでいいんだ。」