「宗教の進むべき道(2)」(2019年02月12日) ムハンマッがジブリルから啓示を得たということがらは啓示の内容に含まれている真理に 対する論理思考に支えられた解釈であり、信仰上の反応なのである。別の例として、ムハ ンマッがマディナにヒジュラしたできごとがある。それは史的事実だ。ムスリムの歴史家 も非ムスリムの歴史家も、ヒジュラが実際に起こったできごとであるのを認めている。と ころがイスラミラジュというできごとはメタヒストリーであり、きわめてプライベートな 性質を持ち、信仰という反応を要求する。キリスト教の中にも、この種のことがらは少な くない。歴史的にイエスの生涯は十字架の上での敗北に終わった。ところがキリスト教信 仰において、そのできごとは反対に、人間の罪を打ち砕く姿としての勝利を意味している。 それゆえにイエスは救世主と呼ばれ、また贖罪者と言われている。キリストの復活を祝う パスカもイスラムにおけるミラジュと同様で、信仰の領域内にある霊的現象であり、史的 事実とされ得ないものだ。金曜日に行われた磔刑から三日後の日曜日にイエスはよみがえ り、神の元へと昇天(ミラジュ)したことをキリスト教徒は確信している。 それらの例から、事実と比喩的シンボルを織り交ぜた史的ストーリーと超史的ストーリー が宗教の観念と伝統の中で頻繁に交錯していることが分かる。だからこそ、そのすべてを 物語や記述のままに理解すると、最深部に置かれている意味やメッセージは失われてしま うことになる。それが聖書の文句についての解釈の差異や論争を生み出すのである。永遠 にして常に活性的で、いくら汲んでも尽きることがなく、無尽蔵の解釈をもたらしてくれ る聖書にそんな性質を与えているアスペクトのひとつが、象徴的比喩的要素を含んだ言葉 の力であるのは疑いもない。だからこそ解釈の相違が発生するのは当然なのであり、聖書 の文句自身がそれを促す一要因になっているのである。 < 我から我らへ > 最初はプライベートな体験や確信であっても、宗教の教えが周辺社会に広がって行くとそ れを信じるコミュニティが生まれ、それを信じないコミュニティを否定するようになる。 そのような自己の信仰に同調しない集団はアラブ語でカフィル、ヨーロッパ語でインフィ デルと呼ばれる。そうなると、自分たちとは異なる信仰を持つ者すべてがカフィルという ことになるのである。最初はプライベートでコミューン的だったものが公的領域に進出し、 更に公的スペースにおけるヘゲモニーや権力ネットワークを宗教の名において争奪するよ うになったあげく、異なる信徒集団に対する評価と姿勢が違うものになってくると、問題 が生まれる。世界のあちらこちらでわれわれはそんな姿を目にするにちがいない。[ 続く ]