「バンダ島は類まれな先進社会だった(2)」(2019年02月12日)

カレルは1885年1月21日に、オランダ人の父とマルク族の母の間で、バンダネイラ
島で生まれた。かれはバンダで郵便局員として働いた後、1923年に税務職員になるた
めジャワ島に移った。ふたりの兄弟がスマートフォンで見せてくれた祖父の写真はマルク
との混血であることを明白に示していた。現代インドネシア人がブレ(bule)と呼ぶ、あの
白子のような白さではない。ふたりの兄弟にしても、色は黒い。体つきもオランダ人特有
のあの背の高い大きな身体でなく、アジア人並みの上背だ。自分の父も、叔父叔母従兄弟
姉妹たちも、みんな似たような体格だとふたりは語った。

ふたりは念願のバンダネイラを訪れた。そしてかれらの先祖が暮らした土地がそこである
ことを心から確信したと語った。その歓びは筆舌に尽くしがたいものがあった。

ふたりは更にバンダネイラで、曾祖父が刻んだ人生の一端に触れることに努めた。アルバ
ート・フレデリック・パイスは1906年までバンダネイラに暮らした。しかし曾祖父が
生まれた家がどれで、墓がどこにあるのかは、細かいデータがないために分からない。だ
がふたりにとって、それは些細な問題だ。祖先がそこで生き、そこで暮らしたのであり、
その土地とそこにあるすべてのものを肌で感じることができたのだから。


ラシェル・デ・フリースの父は大バンダ島のチョンビルとラニンの農園主だったヘルマン
・デ・フリースの次男だった。デ・フリース家がはじめてバンダにやってきたのは184
0年のことだ。

ラシェルも自分の先祖が歩んだ足跡に触れてみたい思いを抑えかねて、1994年にバン
ダ島を訪れた。それ以来かの女は、2012年・2014年・2017年と何度もバンダ
島へやってくるようになった。


バンダにもオランダの血を引く混血者はたくさんいる。たとえばバンダ島にあるナツメッ
グ農園の所有者であるポンキ・ファン・デン・ブルッケもそのひとり。かれは1612年
にバンダに入植して農園事業主になったオランダ人ペーテル・ファン・デン・ブルッケの
13代目の子孫にあたる。
「バンダに興したファン・デン・ブルッケ家では、三代目から地元民との混血が始まった。
いまでは、わが一家にはオランダ・ジャワ・アラブそして地元のバンダの血が混じり合っ
ている。
昔わが家では、大収穫を終えたあとの祭にワヤンクリッを一週間、毎夜徹夜で催させてい
た。ナツメッグの燻煙場のそばにある倉庫には、ワヤンを納めた櫃がふたつとガムラン楽
団セットがいまだにしまい込まれている。」[ 続く ]