「宗教の進むべき道(終)」(2019年02月13日) 信徒集団の形成は、イスラム教のコンテキストにおけるメッカ巡礼の務めやイスティゴサ を行うときのような、大量で流動的なものもある。その一方で、機関・組織・政党などに よって結びついた構造的な小規模集団もある。しかしながら各宗教は宗教の務めを果たす ための場所を擁するコミューンを生むことから、容易に目にするのはモスクや教会などの 宗教活動のための建物なのである。それら宗教儀式の会場は地上にあって衆生と天上の神 の玉座をつなぐ神聖な場所にして、衆生が祝福を伝えたり赦しを請うたり、更には終末に 至るまでのこの世の安寧の道を示す指標を求める場でもあると信じられている。 インドネシアにおける民衆の信仰区分は、KTP(住民証明書)によって固定されている という要素によって、強固なものになっている。そこでは宗教が社会的アイデンティティ と住民データの一部にされている。加えて宗教ベースの社会組織がたくさん出現しており、 このような宗教アイデンティティは更に政府が国家予算を用意し、宗教省を通して宗教育 成に便宜を与えることで強化しているのである。上下方向での宗教の役割は神との繋がり にあるのだが、水平方向の面ではきわめて複雑で細かに枝分かれした発展形態をなしてい る。時に宗教は文明と平和の駆動力且つ支柱となるばかりか、時には分裂や戦争の源泉と されることもある。 成育の初期において神の預言者たちは教義を擁して、常に虐げられた者たちの味方をし、 擁護した。だから神の預言者たちの敵は暴虐な支配者たちだった。そんな状況下に宗教は 解放者パワーとなった。ところが宗教が権力の座に就いた勝者の手に握られたとき、その 社会的役割の針が権力保全のツールという位置に移動したことも稀でない。それどころか、 民衆への圧制に関与することさえ起った。歴史には、権力争奪と社会コンフリクトへの宗 教の関与に関するストーリーがたくさん記されている。その苦い経験がヨーロッパ諸国を して権力コントロールにおける世俗主義の道を歩ませているのだ。宗教は個人の必要を満 たすものでさえあればよく、政治・経済・文明は論理性と科学の力に委ねるほうがよいと して。 現代における宗教機構は、人間の必要性を満たし、社会生活を統御する諸分野で、世俗機 構と競合しなければならない。キャンパス・病院・銀行・工場・政府と国家の行政などの あらゆる分野が宗教とは無関係に、人類へのよりよい奉仕を発展させることができなけれ ばならない。但し、世俗機構とそのイデオロギーに太刀打ちできないものが宗教にはある。 それは宗教が勧める終末への安寧の道だ。宗教思想家と宗教活動家にとってのチャレンジ のひとつがそれなのである。[ 完 ]