「バンダ島は類まれな先進社会だった(終)」(2019年02月13日) 何人だ、何国籍だ、といった社会政治上のことがらとは無関係に、混血という人間の結び つき方を通して文化や伝統が混じり合っていく典型例を、われわれはポンキの話の中に見 出すのである。 バンダ諸島を構成している島々のひとつルン島の住民に、ラアチという名のひとがいる。 かれはマルク族でなく外来者の子孫だ。かといって、地元の文化慣習の中にしっかり溶け 込んでいるから、そのような区分をすること自体にたいした効用はない。 ラアチの祖父のラオロは東南スラウェシのブトンから移住してきた。祖父が伴侶にした女 性ザエナブは中部ジャワのスマラン出身だった。オランダ政庁がバンダのナツメッグ栽培 のために、各地から労働力を送り込んできたことの波及効果がそれだった。 元々は通商の利が育んだメトロポリタン性は、利の独占を目指したオランダ人によって強 制的に変質させられた。ところが構造的な枠組みに変質が起こっても、それが人間行動を 支えるメトロポリタン性にまで変化を及ぼすことは起こらなかったようだ。それを人間が 持つしぶとさと見ればよいのか、それとも一旦築きあげられた人間のビヘイビアパターン に対する保守性と考えるべきなのか。 アンボンのパティムラ大学歴史学者で、バンダ島出身者でもあるウスマン・タリブ氏はバ ンダ島の位置付けについて、植民地にされる前のバンダ島は、ジャワ・ムラユ・中国・イ ンド・ペルシャ・アラブなどからやってくる訪問者と友好的な関係を築き上げ、諸民族が 混在して暮らす複合社会になっていた、と説明した。 バンダ人もさまざまな地方へ船で旅し、旅先で居住することを当たり前のこととしていた。 ポルトガル人がはじめてマラッカを訪れた1511年に、かれらはマラッカにバンダ人部 落があることを知ってその事実を記録している。 複合民族国家インドネシア共和国が誕生するはるか以前に、バンダはミニインドネシアの 性格を十分に持って育っていたということなのだ。人種の融合する社会が作られ、複合性 はバンダ人のアイデンティティになった。そしてバンダ島にその類まれな社会的先進性を もたらす原因になったのが、ナツメッグという商品作物だったのである。[ 完 ]