「一国家、一民族、二言語(7)」(2019年02月22日)

[ VI ]
上で述べたような衣装を一部のひとは、変わったもので特にお洒落の要素が強いものだと
考えている。それらの言葉の由来を見るなら、その見方は納得できるように思える。だが、
インドネシア語においても実際のところはそんなものなのだろうか?つまり、ふさわしい
のかどうか、間違っているのかどうか、などはもはや問題外で、身を飾り、やつすことに
熱中するようなもの、ということなのだろうか?

そのポイントは同時に、「善くて正しい」インドネシア語に関するコンセプトを問い直す
ものでもある。そのスローガンが持つコンセプトは、現実性や発展を内包する言語適応性
および言葉の成育経緯を無視している印象があることを、わたしはここで、実例を示して
指摘しようとしているのだ。

たとえば、標準というものを硬直的にする傾向のある言語学的見地からのみ国語を見るの
でなく、表現の自由や論述の美に関する諸見解を含んだ社会学的立場からもっと深く国語
を見ることも、国語育成開発センターには無論、必要とされているのである。ひとつの面
からばかり国語を見るようなことに熱中するあまり、国語育成開発センターが国語育成指
導センターになってはいけないのだ。

かつてEYDでは、文字数を減らすことが推奨項目のひとつに置かれたというのに、今わ
れわれは文字数を浪費するように仕向けられている。「tapi」という四文字が十文字の
「akan tetapi」に、四文字の「gule」や「sate」は五文字の「gulai」「satai」に。理
由は、標準語形に/e/の音がないからだった。奇妙なのは「sore」が「sorai」にされなか
ったことだ。それは国語育成開発センターが出したKBBI(インドネシア語大辞典)の
諸語義に見られる間違いとはまた別のものだ。その中のひとつだけ、「apologetik」とい
う語彙だけを指摘しておこう。わたしにとってそれは重要な問題だからだ。

KBBIはapologetikの語彙をbersifat pemaafとしている。実は、この語は神学におけ
る特殊な術語であり、ある人物に向けられた攻撃から自己を守るために自分の信仰の正当
性を弁論する行為にかかわっている。KBBIは多分、この語を、英語のapologyに由来
していると考えたのだろう。しかし教会が神学の中で発展させたギリシャ語源のapologia
は英語に摂取されて「verbal defence, clearing of self」という語義を与えられている
ではないか。[ 続く ]