「一国家、一民族、二言語(10)」(2019年02月27日)

[ VIII ]
文字に関して起こった間違いについては、インドネシア語をラテン文字に置き換える場で
発生したものだ。ラテン文字をまだ知らなかった時代、半島と島嶼部の原住民はムラユ式
アラブ文字で言葉を表記した。オランダ人はその原書からアラブ文字をラテン文字に書き
換えていった。読み間違いや書き間違いが皆無であったはずがない。その例をこれから見
て行こう。

その前に、インドネシア人が公式にラテン文字を学んだ事始めが1536年だったのを覚
えておくのも悪くない。その年、インドネシアで最初の学校がポルトガル人総督アントニ
オ・ガルヴァノ(Antonio Galvano)の命でアンボンに設けられた。アンボンのひとびとは
ムラユ語を宣教師フランシスコ・ザビエルの著述から学んだ。ザビエルはキリスト教の重
要な聖句や章句をマラッカで翻訳させ、その「Doa Bapak Kami」「Salam Maria」
「Syahadat Rasuli」を携え、鐘を持ってアンボンとその周辺を巡った。そしてその文句
を覚えた者をBapa, Putra, Rohkudus(父と子と精霊)の名において洗礼した。しかしム
ラユ語で印刷された聖書が登場するのは、それから百年以上後の1663年のことだ。そ
の書物こそが、インドネシア書籍史における最古のラテン文字出版物なのである。それは
ブラウエリウス(Brouwerius)がなした大仕事だった。

オランダがポルトガルを打倒して、西洋諸民族が最優先目的地にしていたスパイスの中心
地であるアンボンを手に入れたとき、アンボン人は既にムラユ語を知っていた。その事実
を踏まえてオランダ人は、ムラユ語を行政統治のための言語に使った。その延長線上で、
後の時代に、ムラユ語を理解するアンボンやマルク一円のひとびとに教育を施すオランダ
人が現れた。その中の重要人物のひとりがオランダミショナリーソサエティ(NZG=Ne-
derlands Zendelingen Genootschap)の派遣したプロテスタント神父のヨセフ・カム
(Josef Kam)だった。

そのオランダ植民地時代にムラユパサル(市場ムラユ語)の反対語としてのムラユティン
ギ(上流ムラユ語)が、オランダ人の奉った唯一の書物「El Khawlu'l Djadid, ija itu 
segala surat perdjandjian baharuw, atas titah segala tuwan pemarentah kompanija, 
tersalin kepada bahasa Melajuw」によって標準化された。アラブ語の影響をきわめて濃
く受けているのが、初期上流ムラユ語の特徴だ。一方、ハントゥア(Hang Tuah)やスジャ
ラムラユ(Sejarah Melayu)などのムラユ式アラブ文字で書かれたムラユの古い著作はオラ
ンダ人がラテン文字に移し替えて重要文書とした。[ 続く ]