「一国家、一民族、二言語(終)」(2019年02月28日) 現在インドネシア語標準語彙とされている単語の中に、ムラユ式アラブ文字からラテン文 字への転記がなされた際に誤りが起こったものは数多い。その例として次のようなものが 挙げられる。 seru: Tuhan seru sekalian alam. のように、神や創造主を呼ぶ際に使われる言葉だ。 この言葉は本当はserwaとされなければならない。しかしムラユ式アラブ文字による表記 がsin-ra-wauと書かれていたためにseruと転記されてしまった。 atau: この言葉はatawaとされなければならないところ、alif-ta-alif-wauというムラユ 式アラブ文字表記の最後をwaでなくuとしてしまった。 suatu: これもそうだ。sin-wau-alif-ta-wauはsawatuと読まれなければならない。satu batuの大きさというのがその意味だ。 [ IX ] だから「善くて正しい」インドネシア語というスローガンはインドネシア人のふたりの内 のひとりの耳に、奇妙に響くのである。 それがいまだにインドネシア語にとっての問題として継続しているのは当然のことなのだ。 青年たちが誓わなかった「一国家・一民族・2ランゲージ」の傾向は絶対に衰えることが ない。だからと言って、ムラユ式音韻システムに則らない英単語が発言の中を横切ったと しても、それを進歩だと早まってはいけない。 今起こっているのは、われわれ(既述の洒落者たちのことだ)が借りる一方でお返しをし ないという状況なのである。そのような洒落のあり方は、膝の抜けたジーンズを穿いてガ ンズ・アンド・ローゼズ(Guns 'n Roses)になった気でいる、アメリカかぶれの根性なし ティーンズの行動とまったく同じものなのだ。それがために、やっとネクタイを結ぶのが うまくなったのだろうが民族団結の絆を結ぶのはへたくそな国会議事堂の中にいるかれら の間で、ブルネイゲートやブロッゲートなどの言葉を最初に言い始めた者が誰であれ、か れらのやっていることはアメリカかぶれの根性なしティーンズの行動と何も違わないとい うことなのである。[ 完 ]