「クミングリス(終)」(2019年03月08日)

クミングリス現象は限度の境界線を飛び越えてしまっている感があるものの、インドネシ
ア語の書き言葉には何十年もの昔から、外国語を術語としてそのまま記載する習慣があっ
た。つまり別の理由から外国語の語彙がインドネシア語文章の中にひんぱんに出現してい
たのである。それはナウいやガウルに関わるものでなく、あくまでも学術的な姿勢にはち
がいなかった。

ただ、そのような教材を使ってインドネシア語を教える先生たちの苦労は、自国語だけで
ほとんどの意図内容を伝えることのできる言語を教える先生との間に天と地ほどの差を生
み出していたことも確かなようだ。インドネシア語にない単語、あるいは訳語があっても
意味がおかしくなるために使えないケース、そしてそれが英語・オランダ語・フランス語
・ラテン語などの多岐にわたっているのである。おまけに多くの語彙を網羅し、丁寧に語
義が説明されている辞書がまだなかった時代など、それがインドネシア語なのか外国語な
のかの判定すれつけられない先生がいたとしても、何らおかしなことではなかった。先生
がそんな具合だったから、ましてや生徒においておや、であろう。

インドネシア語のテキスト素材だからすべてインドネシア語というわけにいかないのだか
ら、生徒はまずそれがインドネシア語なのか何語なのかということを見分けなければなら
なかった。そうなると、インドネシア語学習でなく一種の言語学教室みたいになってしま
いそうだ。

そんな時代を経て、今や大量の語彙を持つインドネシア語辞典がたくさん出現し、また非
インドネシア語である外国語もインターネットが推奨判定してくれる時代になった。そこ
にきてのクミングリス現象なのである。

インドネシアという現在の時空において、国語学界や国語行政が進めているインドネシア
語の深化は容易なことで社会現象になりうるものでもあるまい。それは学校での国語教育
の実態を見ればあきらかだろう。社会は、つまり一般国民は、国語が学界や行政の所有物
であるとは見なさず、自分たちのライフスタイルをそこに反映させようとする。クミング
リス現象はその結果がもたらしたものだとわたしは考える。

権力が言語を統制しようとして成功したためしはないらしい。群衆も同じだ。どれほど巧
みに統制しようとしても、常にだれかがどこかで違うことを行っている。[ 完 ]