「非国民が罹る英語耽溺症?(前)」(2019年03月21日)

ライター: 文筆家、サムスディン・ブルリアン
ソース: 2014年9月27日付けコンパス紙 "Kata Asing"

友人エコ氏の愚痴を聞いた。インドネシア語は現代世界の用、とりわけ科学技術分野を中
心にして社会学・文化・芸術などほとんどあらゆる面でのそれを果たす力を持っていない
という辛辣な批判への反論だ。未来世代の持ち物であるゲームコンソールに書かれている
不可解な術語や電子メッセージに出現するIMHO URSAI 10Q **// のような文字+数字+
記号を混ぜ合わせたミステリアスな文句ばかりか、食の分野だってそうなのだ。kuliner
に相当するインドネシア語を探すことさえ大変だ。

pesbukやponselなどの言葉が世間に満ち溢れる前の時代、インドネシア語に誇りを抱く
教師たちは不安を包み込む熱心さで教え子たちに、本当は自分たちの統一言語が外国語に
負けないどころか、外国語よりもっと豊かなのだということを確信させるべく努めていた。

たとえばコメに関する言葉がそれを証明している。英語ではriceの一語が水田からクトゥ
パッ(ketupat)に至るまで、あらゆるコメに関するものごとに使われている。ところがイ
ンドネシア語はどうだ?こんなにたくさんあるではないか、と教師は教え子に示して見せ
るのである。
padi, dedak, gabah, sekam, bekatul, menir, lukut, melukut, lemukut, belukut, 
temukut, antah, busi, merang, pesak, roman, ketan, pulut, sipulut, nasi, bubur, 
tupat, lontong, lemang, bertih, lemper, wajik, jenang, jadah, dodol, lepat, 
klepon, rengginang, ......関連するすべての名称や術語をヌサンタラの各地から取り揃
えて並べれば、このコラムのスペースではとても足りるまい。


ところが外国語に慣れているひとびとは、その教師の言葉を軽く一蹴する。市場で高い値
がついている肉をインドネシア人はあのdaging(肉)このdagingと言っているだけだが、イ
ギリス人も同じようにmeatと言っているだけだと思ったら大間違いだ。これを見てみろ。
beef, veal, pork, ham, mutton, poultry, game, venison, lamb, cut, jerky, sausage, 
bacon, brisket, steak, chop, chuck, chump, rump, salami, sirloin, .....

そんなことだけじゃなくて、インドネシアの現代生活を外国語の語彙なしに話すことも書
くことも、ましてや考えることすらできやしない。その外国語の語彙が国語庁のビザ付き
で入って来たものであろうが、オーソライズなしに密入国してきたものであろうが、なし
には済まないのだ。インドネシアという単語そのものすら、元をただせばギリシャ語の
indosとnesosの組み合わせではないか。もっと言うなら、インドネシア語の書き言葉の
基盤になっている文字さえ、ラテン文字と呼ばれる外国起源のものなのだ。

民族主権あるいは民族の誇りに関わるこの論争は、きわめて覇権性の強いと見られている
西洋の影響や支配に対する拒否がアンチ外国語の形で凝縮されたものを要素として含んで
いる。西洋語の替わりに非西洋語が使われるなら、誰もそれを問題にしないのである。イ
ンド語でもアラブ語でも、外国語であるのは違わないのだが、それらは脅威にならず、盟
友になるのである。sipilはアラブ語のmadani、コンピュータのdiskはサンスクリット語
のcakram、dekadeはインド語のdasawarsaに。[ 続く ]