「非国民が罹る英語耽溺症?(後)」(2019年03月22日)

覇権に関わっていることがらのゆえに、世間一般が特定の外国語(西洋語)を使わないよ
う、一部の人間が行政を使って禁止させようとする。地方自治体の中には、商店名や会社
名に外国語(西洋語)を使うことを禁止し、既に商標登録済みのものまで変えさせようと
する。そのとき、インド語に由来する名称に対しては絶賛奨励するのである。かれらにと
って西洋由来の外国語に対する拒否は文明戦争の一部になっているのだ。

外国語に対する訳語を作ろうとするのは決して悪いことでないし、それどころか称賛に値
することだ。その際に忘れられがちになるのは、その語の概念と語義がわからなければ翻
訳は不可能であるということだ。mouseがtikusと翻訳されたとき、われわれはtikusの語
義を知っているから翻訳は完遂される。ところがmouseがtetikusとされたとき、われわ
れは語義を持たない新語の音と字面に直面するのである。tetikusが何かを理解するため
には、われわれはコンピュータのmouseについて知らなければならない。その語義は、
結局のところ外国人が決めていることがらなのである。tetikusがもたらす誇りは語義を
持たない音と字面の誇りなのだ。

真の誇りはその言葉が持つ概念と語義から得られるものである。ヨーロッパ人はアラブ語
からaljabarの語を取り込んだ。それはかれらがアブ・アブダラ・ムハンマッ・イブン・
ムサ・アルホワリツミ(al-Khwarizmi)の著作Al-Kitab al-mukhtasar fi hisb al-jabr wa'
l-muqabala を読み、内容を学んだからだ。そのペルシャ人数学者に対する尊敬が大きか
ったから、その名はアルゴリズム(algoritmi)という名称として伝承され、今現在は言う
に及ばずこの先未来に渡って、地上に存在するありとあらゆる学校生徒たちが学ぶべきも
のになっている。日本はkaraoke, sushi, manga を世界中に知ろしめた。われわれもsa-
rongやbatikを英語語彙の中に輸出したことを誇ってよい。ただしamokだけは少々恥ずか
しいのだが。

言語の偉大さと言うか、すさまじさと言うか、そのものすごさは、政治の意向、言語学者
の好み、言語機関の決定、行政法規、国語純化キャンペーンなどに屈服してその鼻面を引
き回されたことが未だかつてなく、そして未来永劫ないだろうということだ。外国語の阻
止や禁止の努力は劣等感を反映する卑小な印象をもたらす。インドネシア語が国内外で権
威を打ち立てるかどうかは、革新と創造という本質が決定することだ。インドネシア語使
用者が科学・技術・大衆文化・重厚な著作などの諸分野で貢献者となり先駆者となるなら、
われわれは強制され得ない誇りを持つことになるだろう。

もしもわが友エコ氏のお嬢さんが物理学者となって新しい基本分子を発見し、それを
indonesonと名付けたなら、この先何世紀もの間、すべての学校生徒はその名を記憶し、
その国のことや言語を学ぶようになるにちがいない。願わくば。[ 完 ]