「嗚呼、インドネシア語(2)」(2019年03月27日)

驚くような話だが、バイリンガルあるいは多重言語者のインドネシア国民が国内でもっと
も多用している言語がインドネシア語だと思ったら大間違いで、たとえば国民ひとりひと
りが日常生活で会話に使う言語量を総量とし、インドネシア語の比重はその中のどのくら
いかというポイントからそれを見るなら、インドネシア語は三位か四位に位置しているら
しい。

人口最大のジャワ人がジャワ文化の中という日々の生活環境にどれだけインドネシア語を
使うかという点に焦点を合わせるなら、一日の生活の中でインドネシア語はまったく使う
機会のないひとがたくさんいても不思議はあるまい。

もちろんかれらはインドネシア語のテレビやラジオ放送に接したり、あるいはインドネシ
ア語の新聞雑誌を読んでいるのが疑いないにせよ、その状態はインドネシア語を使うとい
う表現に合致しないだろう。使うという言葉はもっと能動的な様子を指しているとわたし
は考えている。


今や世界言語となった英米語、そして映画・小説・ヒット曲・IT技術などの文化産物の
故に文化宗主国として君臨するようになった米英の文物に向けられる崇拝は、インドネシ
ア人に限ったものではない。

カッコよさが人間の社会生活に価値を持っているなら、多くのひとびとがその価値に即し
た行為行動を社会の中で示すのも当然であるにちがいない。そうなってくると、文化宗主
国がオファーしてくる文物のカッコよさ度がデシジョンメーカーとなるだろう。自分の内
面に、それに対抗できるものをどれほど持っているかという問題だ。なにしろ、いくらそ
れがカッコよいとはいえ、百パーセントその物真似をしている人間を世間中が同じように
カッコいいとは思わないし、時には「アホの物真似」と見下されることにもなりかねない
のだから。

教育文化省国語開発育成庁長官が18年10月の第十一回コングレスバハサインドネシア
を前にして述べた「地方語は伝統文化の偉大さを若者世代に認識させる力を持っていなけ
ればならない。」という言葉はその本質を衝いたものだろう。原理はその通りであるにし
ても、二重構造という長いプロセスを経なければならない点にインドネシア側の不利があ
る。それをカバーしようとして、地方語の語彙をもっとたくさんインドネシア語ボキャブ
ラリーに取り込む動きが進められている。だが構造的な不利をそれでカバーしきれるのか
どうか。

青年の誓いによって創出されたインドネシア語という統一国家のための国語は、ムラユ語
がその基盤に置かれた。これからインドネシアという祖国を地域名称に持とうとするひと
びとにとって、その国語、つまり共通言語あるいは統一言語になるものがどうあるべきか
は想像に難くない。

その時期、その地域の最有力言語はジャワ語だった。ジャワ語人口が蘭領東インド原住民
の中で最大だったのは言うまでもない。[ 続く ]