「嗚呼、インドネシア語(4)」(2019年03月29日) 元々、文明が流れ着く果てに位置し、しかも交通の十字路に位置していたこの南洋島嶼部 には、インド・ペルシャ・アラブ・中国という高文明のひとびとが文化を携えて通過した し、時には覇権を求めて軍事侵攻さえ行われた。外国語彙がこの地域に土着化する条件は 整っていたと言えるだろう。 それに加えて西洋人のアジア進出と植民地主義の結果、数百年間続けられた民族支配のた めに西洋文化がもたらした語彙も分野によって顕著な土着化を示した。インドネシア語の 九割は外来語だとインドネシア人学者が唱える説は、そういう背景に裏打ちされたものな のだ。 そんな傾向を持続させたら、インドネシアという政治コンセプトは崩壊しかねないと誰し も感じるに違いない。域内の諸種族が集まってひとつの複合国家を形成し、その複合性を ひとつにまとめて縛るひもの役割をインドネシア語が果たさなければならないのである。 今でさえ、インドネシア語が示す文化面での機能はインドネシア領土の外にできた文明文 化を色濃く引きずっているのだ。その濃度を更に深めることなど、あってならないことだ と誰しも考えるだろう。これは単なるナショナリズム感情以上の問題、もっと深い構造上 の問題であるようにわたしには思える。 そこにきて、とみに目立つようになってきているのがクミングリス現象なのである。職業 上の必要性からというばかりでなく、日常交際の中にも顕著に現れており、特にミドルク ラスがそのようなトレンドをライフスタイルの中に実現させようと意欲を燃やしている感 が強い。 それをインドネシア性というものが国際社会に対して持っている威厳への自己卑下精神で あり、インドネシアというものを国際社会に押し出して行くことに自信を喪失している状 態と見ることは可能であり、その改善のためにインドネシアが持つ文化的高さをかれらに 植え付けて自尊精神を高めてやる必要が出て来るわけだが、残念ながらインドネシア文化 というのは複合的地方文化のエキスを浸透させなければ充実した内容が目に見えて来ない という構造になっている。 そのあたりの状況について、大きな問題のひとつはマスメディアにあるという意見が強い。 ミドルクラスが持ってしまったトレンドはマスメディアが先導しているのである。マスメ ディアは既にその傾向をたっぷりと持ったミレニアル世代で埋め尽くされており、マスメ ディアが示すものが先端ライフスタイルであるとミドルクラスは受け止め、それが売れる ためにマスメディアはその方向へとますますのめり込んで行くという悪循環だ。[ 続く ]