「人類の女性化は殺しを忌む(1)」(2019年04月01日)

闘って勝つことが男の値打ちである。負けるやつは腐った屑の人間だ。だがオレはちがう。
オレをなめてかかってくるようなやつは、痛い思いをしなきゃならないぜ。

サングラスで目の動きを隠し、周囲に何があろうがニコリともせず、常に臨戦態勢を全身
にみなぎらせている人間が、世界のあちこちにいる。かれらにとっては、他人に愛想をふ
りまくのは尻尾を振る犬と同じなのだ。

強い男であることこそが自分が生きる意味であり、それを証明するためには自分の上にの
しかかろうとする野郎を叩き潰さなければならない。闘いに勝つこと。それが自分自身に
向けられる存在証明なのである。


人類の歴史の流れの中で、男に課された機能は自分が所属する共同体集団の戦闘員になる
ことだった。ある暴力集団の戦闘員に志願して戦争を行い、あるいはテロリストになって
仮想敵を皆殺しにするのは、その歴史的本能を受け継いでいる男たちの行動であり、宗教
や種々のイデオロギーには関係がない。

男の本能的な部分にそれがあるから、何らかの動因によってそれが引き出されて来るので
ある。それを振るいたくてたまらない男にとって、動因は何であってもかまわない。大義
名分が立てば立つほど、かれのヒロイズムは鼓舞されることになる。

戦国時代の闘争における常識は相手の息の根を止めることにあった。首狩りは自己の強さ
の証拠品を残すことであり、同時にその常識をも満たすツールだったことを忘れてはなる
まい。相手の死が自分の勝利の確定なのである。殺さないまま逃げられ、いつの日か、か
たわの相手が自分を闇討ちして殺せば、自分の負けになる。日本で言うなら、宮本武蔵の
生きた時代、その時代における剣豪たちの生きざまがそこに重なって来るようにわたしに
は思える。米国ならワイルドウエストの早撃ち拳銃使いといったところだろうか。

逃がした相手からの逆襲を怨恨というような要素でなく、勝負に対するプライドや執着心、
勝利への誇りと敗北の悔しさ、つまりは勝つか負けるか、殺されるか生き残るか(そこに
自己の存在意義がある)というポイントからそれを見なければ、剣豪たちの心のひだを覗
き見ることはきっとできるまい。


男の暴力闘争本能に対する女性化は世界の潮流となって進展してきてはいるものの、それ
を拒もうとする男たちがいまだに多いのは、暴力集団への戦闘員志願やテロリストの出現
という事実を見るだけでも明らかだ。

そこに人種的文化的傾向を見出すことができるのは、男の女性化というものが純然たる文
化現象であるためだろう。文化現象は常にプロとアンチの相克の上に進展して行く。
[ 続く ]