「BABS(4)」(2019年04月12日)

排泄物をところかまわず放置するのはケダモノに普通のビヘイビアであるため、そのよう
なことをする人間は野蛮だと見なされる。文明は人間に排泄物の処理を命じた。排泄物は
悪臭という不快さを人間に感じさせ、さらに非衛生さをもたらして人間に病気や生命に危
険を及ぼす。だから、人間としてより優れた暮らしをするために排泄物は処理されなけれ
ばならない。処理をしないで野グソを垂れる者は野蛮人だということになる。

世界の遺跡を調べると、シュメール、バビロニア、インダスなど紀元前数千年昔に栄えた
場所で、排泄物を水で流して処理する文化が誕生していたことがわかる。ただし、その文
化を民衆の何パーセントが実践していたのかというのが、文明のレベルをはかる鍵になる。

それが一握りの特権階級のものでしかなく、大多数は野グソをひりっぱなしにしていたの
であれば、水洗トイレがあったことだけを言い立てて偉大な文明などという表現を歴史の
書物の中に書いているのは嘘っぱちにしかならないだろう。そこにできた社会の構成員の
多くが野獣と同じ暮らしをしているなら、その文明の価値は大いに割り引かれざるを得な
いのだから。

たとえ水洗トイレがあったとしても、その先の処理パターンにはバリエーションが生まれ
る。下水道を作って川まで流すというのもあれば、貯蓄槽に溜め込むようなものもある。

下水道はなにも地下に限られているわけでなく、地表に露出しているようなものも存在し
た。排泄物処理に関する文明の目的から言えば、地表に露出しているものは充足度が劣っ
ているわけで、だからそれでよしとしたひとびとの文明度は低いものだったと評価するこ
とができる。水洗ではないが穴を掘って貯える方式や、直接川の流れに落とし込むもの、
あるいは養魚池や家畜の檻に落として餌にするもの、さらに野グソ方式ではあっても落と
したものを砂や土で埋めたり、海岸で砂浜に埋めるというようなスタイルなどさまざまだ。

水が豊かに利用できない環境であれば、水洗方式など及びもつかないにちがいない。砂漠
では砂に埋めるパターンが多いし、川があっても川から何十キロも離れて住めば、川まで
行かないで済ますことも起こりうる。

古代BABはバリの村人が示すような、戸外の手当たり次第の場所で行われていたにちが
いない。川や海岸などの水辺がチョイスの筆頭に上ったのは、人類が元々、生活に必要な
水の近くに居所を求めた結果だろう。

だが人口が増加し、あるいはより良い居所の争奪戦の結果、水辺が得られなくなったひと
びとは、悪条件を耐えるしか方法がなかった。結果的にBABも水のない場所で行うよう
になる。[ 続く ]