「ディポヌゴロの部屋(1)」(2019年04月24日)

1825年に始まったディポヌゴロ(Dipanegara)戦争は、長引くに連れてオランダ植民地
軍が優位に立ち、ディポヌゴロ軍側の精神的指導者だったキヤイ・モジョ(Kiai Maja)が1
829年にオランダ側に捕まり、続いてマンクブミ(Pangeran Mangkubumi)やスントッ・
アリパシャ(Sentot Ali Pasya)たち同志がオランダ側に降伏したことで、ディポヌゴロは
孤立した。しかしディポヌゴロ自身にもまだ自分の率いている軍勢がおり、ラトゥアディ
ルの化身となったかれ自身にこの反オランダ戦争をやめる気はさらさらなかったのだが、
軍事的に劣勢になって窮地に陥った結果、オランダ側との交渉に臨まざるを得なくなって
しまった。

ディポヌゴロ軍という表現をしているが、それは単一の指揮系統で動く軍隊ではなく、各
同志が自分の軍勢を率いて各地で個々に戦闘を行っているという形の連合軍なのである。

中部ジャワ全域から東部ジャワの一部までを戦場にしたこのディポヌゴロ戦争はオランダ
側にとって、早急に終わらせてしまいたいものだった。最繁忙期には植民地軍兵員2万3
千人を全域に配備して治安の維持をはからなければならず、おまけに従来の戦争の常識だ
った大会戦を行ってそこで勝敗を決めるようなスタイルは姿を変えて、近代以降の戦争で
常識となった総力戦がそこで展開されたのである。ある地区を昼間に植民地軍が総攻撃で
奪取しても、夜になると一旦退避したディポヌゴロ側がゲリラ攻撃をかけて奪い返すとい
うようなことはひっきりなしに起こっていた。

そのようにして会戦とゲリラ戦そして心理戦と諜報戦が入り混じって泥沼の様相を呈し、
双方は激しい兵員の消耗を競い合った。植民地軍はヨーロッパ人兵員8千人とプリブミ兵
員7千人、ディポヌゴロ側は20万人がジャワ島の土となった。植民地政府がこの戦争に
費やした資金は2千万フルデンに達した。

孤立したディポヌゴロをからめとれば、この戦争は終わる。1826年に副総督としてバ
タヴィアに赴任してきたヘンドリック・メルクス・デ・コック(Hendrik Merkus baron de 
Kock)は植民地軍総司令官として戦争勃発当初に劣勢に陥っていた形成を盛り返し、時間
をかけてディポヌゴロの孤立化という状況に形勢を持ち込んできた。

1830年に入って、植民地軍はディポヌゴロ軍をプルウォレジョ地区に追い込んで包囲
し、クリーレンス大佐がディポヌゴロと接触して終戦交渉に誘った。2月20日、バタヴ
ィアから高官を招いて交渉を準備するから、それまでディポヌゴロと側近たちはムノレ山
地で休養するようにクリーレンス大佐が提案し、ディポヌゴロ側はそれに従った。クリー
レンス大佐は先に降伏したアリパシャを仲介者に使っている。[ 続く ]