「ディポヌゴロの部屋(2)」(2019年04月25日)

バタヴィアからデ・コック総司令官がマグランに到着し、クドゥ(Kedu)のレシデン邸を
会見場所に決めてディポヌゴロを招いた。こうして3月28日、ラマダン明けのイドゥル
フィトリ大祭の日に、両者の会見が行われた。

会談内容はさまざまな記事がさまざまな内容を書いていて、どれが史実でどれが創作かよ
くわからない。降伏するから自分に従った軍勢を放免してほしいとディポヌゴロが求めた
話もあれば、デ・コックがもう戦争は終結しようと誘ったがディポヌゴロがそれを蹴った
という話もあり、さらには交渉事など何もなくてデ・コックが先に書いておいたシナリオ
通りに、デ・コックの命令一下、現場警備部隊が完全武装で邸内に入り、ディポヌゴロを
取り押さえた、というものもある。

ともかくインドネシアでは、ディポヌゴロはデ・コックの奸計によって捕らえられ、ディ
ポヌゴロ戦争はやっと終結したと語られている。捕らえられたディポヌゴロはその日ウガ
ラン(Ungaran)のウィレム二世要塞に送られ、そこで三日を過ごしてからスマランのレシ
デン邸でバタヴィアへ移送するための船が用意されるのを待った。

コルベット船ポルックス(Pollux)号は4月5日にスマランを発ち、4月8日にバタヴィア
に到着する。ディポヌゴロはそのままバタヴィア市庁舎(Stadhuys、現在のジャカルタ歴
史博物館)に収容されて、裁判を待つことになった。


バタヴィア市庁舎には牢獄がある。建物の地下に設けられた広さ2?3メートル天井まで
の高さが1.6メートルほどの狭い房が5つ並ぶ地下牢は一日とて空になったことがなく、
日々囚人であふれていたそうだ。1740年に起きたバタヴィアの華人騒乱で捕らえられ
た華人およそ5百人がその狭い牢獄に押し込まれ、毎日薄い粥と生水が与えられただけで、
骨と皮にやせ細った囚人たちは牢獄の中で死ななければ日々交代で外に連れ出されたあげ
く、表の広場で縛り首にされた。衛生状態は劣悪であり、投獄された者の85%は4カ月
くらいで病気のために獄死したと19世紀中ごろの話は伝えている。裁判が始まる前に死
んでいった容疑者はいったいどのくらいの人数に上っただろうか?

一般犯罪者から政治犯に至るまで、容疑者として投獄された者は判事の前で罪を認めれば
判決が下されて処罰されたが、罪を認めない者には拷問が待ち受けていた。バタヴィア市
庁舎内には判事が裁判を行う部屋があり、そして拷問部屋もあったのである。拷問に耐え
抜けば無罪放免されたものの、その肉体は平常の社会生活が行えないものにされてしまう
のが当たり前だった。歴史家は、拷問に耐え抜いて無罪放免された例はきわめて稀だった
と述べている。[ 続く ]