「ディポヌゴロの部屋(終)」(2019年04月26日)

バタヴィア市庁舎には地下の水牢(penjara bawah air)と呼ばれる施設もある。これは市
庁舎表広場の端に設けられたもので、西から東に31メートル幅3メートル、地表からの
深さ3メートルという規模のものだ。その中は常に50センチほどの高さまで水に満たさ
れており、そこが牢獄にされれば不衛生極まりないものになり、同時に身体を横たえれば
溺死するという残酷さをも含んでいる。

歴史家によれば、そこは日本軍の侵攻に備えて1940年に防空壕として作られたもので
はないかと推定されている。この施設に関する資料が日本軍政期にすべて破棄されてしま
ったために、その目的が何だったのかを証明できるものが存在しない。もちろんNICA
が復帰してから独立闘争の志士たちがそこに投獄された事実があるので、牢獄と呼ばれる
ことに間違いはないのだが。

博物館管理者はその水牢について、もし視察が行われる場合、一時間ほどかけてポンプで
水を排出しなければならない、と述べている。水を出した後でそのままにしていると、雨
水や地下水が溜まっていつの間にかまた水で満たされているのだそうだ。


ともあれ、バタヴィア市庁舎での滞在でディポヌゴロが牢獄に入ることはなかったし、拷
問にかけられることもなかった。植民地政庁に対する叛乱という罪状は明白であり、かれ
にどのような罰を下すかという政治判断を確定させるのが裁判の目的になっていただけな
のだから。

最終的に北スラウェシのマナドへの流刑という判決が出されて、1830年5月4日、軍
船ポルックス号はディポヌゴロとかれに従う男11人女8人の従者一行をマカッサルに運
ぶためバタヴィア港を出発した。

4月8日から5月3日までの26日間、ディポヌゴロと従者たちはバタヴィア市庁舎2階
西ウイングにある天井の低い二部屋を使って起居した。その部屋は牢獄長が平常時は居住
している場所であり、牢獄へ入れるのが差し障りのある高位の人間が投獄されたときは牢
獄長が自分の部屋を明け渡して高位の人間に使わせるしきたりになっていた。

そのディポヌゴロが26日間使ったジャカルタ歴史博物館内の部屋が、ディポヌゴロが起
居した当時の姿に再現されて、2019年4月1日から一般公開された。ディポヌゴロの
部屋と名付けられたこの展示場は常設のものであり、誰もがいつでもそこを見学すること
ができる。そこにはベッドとテーブル、鳥かご、貴人のための傘、由緒ある槍、聖地参詣
のための杖などのレプリカが展示され、さらに画家でもあった裁判長アドリアヌス・ヨハ
ネス・ビック(Adrianus Johannes Bik)の描いたディポヌゴロの肖像画が飾られて、あた
かも反植民地闘争の英雄がその気まぐれな幻を訪問者の前に時折り示してくれるかのよう
だ。[ 完 ]