「ヒッピー狩り(前)」(2019年05月02日)

1960年代から70年代にかけて全世界に猛威を振るったヒッピーの動きに対して、ス
ハルト政権は拒否をあらわにした。

中でもバリ島は70年代に入ってから世界的にヒッピー族に人気のある観光地となり、ク
タ地区は白人ヒッピーで満たされるようになる。ヌード姿でクタビーチを歩く者まで現れ
て、時ならぬ見世物に見物人が集まるような事態さえ起った。地元の治安と秩序を預かる
村役たちにとっては、たまったものではないだろう。

70年代と言えば、デンパサル市内を離れたら昔のままのバリ島が至るところに残されて
いた時代であり、ウブッもギアニャルも夜は真っ暗で、漆黒の闇の中に裸電球がポツリポ
ツリと郷愁をかきたててくれる情景が広がっていた。サヌールのダナウタンブリガン通り
のビーチ側は今と同様にホテルやバンガローが並んでいたが、内陸側の方は建物よりも草
ぼうぼうの空き地のほうが多かったように記憶している。

そういう現代から離れた往古の自然を残す場所を白人ヒッピーたちは好んだようで、かれ
らはビーチでヌード姿になったり、内陸部をはだしで歩いたりしていた。

かれらはホテルやバンガローに泊まらず、地元民の家で民宿した。宿泊費の相場は1米ド
ルで三泊だったそうだ。1972年ごろのバリ島では、地元民は100ルピアで観光客を
自宅に一泊させていたようだ。当時のルピアレートは固定相場制で、1米ドル415ルピ
アだった。

そのころ、ヒッピーたちはクタに集中していて、サヌールでかれらの姿を見かけることは
ほとんどなかった。バリビーチホテルが1972年にヒッピーお断りを宣言し、ヒッピー
がホテル敷地内に入るのを拒否したのが、きっとその主要因だったのだろう。サヌールの
廉価なビーチバンガローを利用していたわたしは、実に静かなホリデーを愉しむことがで
きた。あの頃のバリはもう追憶の中にしかない。


バリ州知事が地元民に外国人を民宿させることを禁止したから、クタも追々とヒッピー族
の姿が消えて行ったようだ。だがジャカルタやバンドンは違う。

インドネシアの若者の間にヒッピースタイルが流行しなかったわけでは決してない。イン
ドネシア人ヒッピーがバリにあまり来なかったのは、国民の間に観光ブームが巻き起こる
ずっと以前の時代だったからだろう。当時LCCなどは存在せず、国内線航空機でバリ島
に来れる者は限られていた。一般庶民がジャカルタからバリ島旅行に出かけるのは、夜行
バスがもっぱらだったようだ。[ 続く ]