「首都圏の保健インジケータ(4)」(2019年05月09日)

さて、金と物品や行為を異なる価値で定義付けている先進的な外国の文化では、金の貸借
という点で傘や履物やあるいは種々の好意とは異なったウエイトをそこに置くのが常識の
ようだ。物や行為の貸し借りよりも、金銭の貸借にはるかに強いプライドあるいは潔癖さ
を置いているようにわたしには感じられる。

一方の、金は天下のまわりものであってイージーカムイージーゴーをその特質に持ってい
るインドネシア人の金銭感覚では、そのようなことが起こらない。他人からの借金を恥と
も思わなければ、口先一つで手に入るべき金額が増えるならそれをしないのは愚か者とい
う観念すら存在している。

借金というのは愛情ベースの人間関係の中に発生するものであり、持てる者が持たざる者
に向ける愛情(お恵みの感覚かもしれない。弱者を保護して優越感を得るパトロン感情だ
ろうか?)の一部をなしているという思想をわたしはそこに見出すのである。

おかげで、契約とその履行という観念を振り回すトアンと、自分への愛情の一部として借
金した女中や運転手との関係は、相互に相手を卑しむ感情のすれ違いに向かって突進して
行くことになる。

この社会的存在である人間が持っている(とされている)他人に向けられる善意や好意を
愛情に位置付ける性向がインドネシア文化にある。かつてジャカルタで親しくなった友人
(日本人)が打ち明けてくれた話にわたしはそれを強く感じるのである。かれは会社が用
意してくれる運転手付き社用車を使っているのだが、あるとき大量の買い物荷物を運転手
がメスの冷蔵庫に運んでくれたそうだ。そのときお礼のつもりでかれは運転手に、冷蔵庫
の中にある冷えたジュースを飲んでいいよ、と言ったそうだ。その後何が起こったかと言
えば、その運転手はメスへ来ると、誰に断りもなしに、好き勝手に冷蔵庫を開いて冷えた
ジュースを飲むようになったとかれは言うのである。わたしは運転手のトアンに対する心
理が、業務というドライな関係から愛情ベースのウエットな人間関係にシフトしたことに
よる増長ではないかという印象を受けるのだが、それはただの先例主義であり、一度与え
られた特権を先例の名のもとに延々と繰り返す現象だと言うひともいる。その運転手が知
情意をミニマムしか持たず、ただ欲だけのために人生を送っているのなら、そうであるの
かもしれない。

だから女中や運転手との間にパトロン=クライアント関係を結ぶ気のないトアンやニョニ
ャは、かれらからの借金申し込みをそこまで含めて考慮するべきだろう。このシチュエー
ションにおける文化の交差は異文化体験の極致のひとつと言っても言い過ぎではないよう
にわたしには思えるのである。[ 続く ]