「チナ蔑視の元凶は満州人?(2)」(2019年05月09日)

1967年12月6日に出された大統領指令第14号は、華人の宗教儀式・祭礼・生活習
慣を個人や家族の中で閉鎖的に行われるようにし、一般社会の中で目立つような形で実践
させてはならないというトップダウン方針を命じた。その中にはCinaという語が使われて
いる。

1998年まで続いたオルバレジームが倒れてレフォルマシ体制に入ってから、2000
年1月17日にアブドゥラフマン・ワヒッ大統領が2000年大統領決定第6号を出して、
1967年大統領指令第14号とそれによって作られたすべての下部規定の廃止を命じた。
ここでもCinaの語が使われている。


2004年にインドネシア儒教最高評議会がそのユーフォリアの中で陰暦正月の催し物と
して、鄭和がマジャパヒッ王ウィクラマワルダナを表敬訪問する場面を取り上げた歌劇を
上演したいという話をレミ・シラド氏に持って来た。

鄭和は初名が馬三保あるいは馬三宝だったことから、通称として三保あるいは三宝に沿え
て公、大人、太監などと書かれ、インドネシアではSam Po Kong, Sam Po Tay Jin, Sam 
Po Toa Lang, Sam Po Tay Kamなどと呼ばれている。

回教徒ではあるものの三宝公はインドネシア華人全般から尊敬されている人物であり、何
度もジャワを訪れた中でスマランに長期滞在したという説もあって、スマラン最大の寺院
大覚寺には回教徒の鄭和が祀られている。鄭和とマジャパヒッ王国の平和的交流は華人と
インドネシア人間の文化交流に格好のテーマだ。

歌劇の構想が進められて行く中で、歌劇の中ではチナの語を使わず、Tiongkok/Tionghoa
を使うように評議会側は要請した。レミ・シラド氏はこう答えた。
「分った。しかしインドネシア語の中でのTiongkok/Tionghoaという語は、鄭和航海のそ
の時代にまだ存在しなかったものだ。その語がインドネシア語の中に定着したのは、19
01年にインドネシア華人が始めた華人組織の中華会館Tiong Hoa Hwee Koanが源であり、
その更に奥の流れにはマイノリティの華人基督教徒が使った中華基督教会Tiong Hoa Kie 
Tok Kauw Hweeというものが嚆矢として見つかる。」結局最終的にその上演では、中国
の北京語読みであるチュンクオが使われることで納まった。

中国から中華基督協会が蘭領東インドに入って来たのは1856年のことで、厦門出身の
Gan Kweeという人物が僑生kiau-seng(現地生まれ華人)と華僑hua-kiau(僑生の対義
語で使われる場合は本国生まれの渡航してきた華人)を会衆に糾合した。しかし中華基督
協会はオルバレジーム下にその名を維持することができず、他の経緯もからんでGereja 
Kristen Indonesia (GKI) となり、今日に至っている、とレミ・シラド氏は付け加えてい
る。

ともあれ、インドネシアの原住民がTiongkok/Tionghoaという言葉を認識するようになっ
た20世紀初めまで、チナという語が中国という実体を指す唯一の単語だったことは明白
であり、それは多分鄭和の大船隊がもたらしたと思われる薬草や果樹の名称にも表れてい
る、とレミ・シラド氏は説く。petai cina (Leucaena deucocephala), bidara cina (Zizy-
phus jujuba), mikan cina (Glycyrrhiza glabra)などがそれだそうだ。[ 続く ]