「首都圏の保健インジケータ(5)」(2019年05月10日)

ただまあ、異文化間の価値観の衝突においては、他文化の価値観が卑賎で劣悪なポジショ
ンに位置付けられるのが普通だから、異文化におけるまともな人間が別の文化では卑賎で
劣悪な存在と見なされることになる。世の中は誤解で成り立っているという格言が真理で
あるのは、間違いないところだろう。


医療機関の示す反ヒューマニスティックな金銭感覚について付け加えるなら、国民健康保
障システムへの対応姿勢をあげることができる。BPJSと呼び習わされている全国民に
加入の義務付けられた健康保障システムはたいていの国で行われている国民健康保険制度
と同じようなもので、加入者は毎月掛け金を納めているかぎりいつでも、この制度に加入
している病院でたいへん廉価に医療行為を受けることができる。

ところが病院側にとっては、これは後払いシステムになってしまうのだ。この全国制度が
開始される前、あちらこちらの先進的地方自治体は住民を対象にして似たような制度を設
けた。そして往々にして新聞種になったのは、病院側が出したクレームに対する自治体側
からの支払い遅れという問題だった。全国制度が開始されてからも、似たような問題が起
こっていたようにわたしは記憶している。

そうなると、事業の資金繰りを重視する経営者は、この種の不良債権を極小化しようとす
るのが順当な対策だ。こうしてほとんどの病院が、BPJS患者の取り扱いを週の何曜日
だけと定め、しかもその日の受付患者数を限定するクオータ化を行うようになった。たと
えば、ある総合病院では土曜日に百五十人まで、というようなスタイルだ。

結局、いつでもどこでも、廉価に医療行為を受けることができるという看板とは裏腹に、
BPJSを使う一般庶民はその当日、朝暗いうちからだれか身内の者が病院を訪れて番号
札をもらい、開業時間に病院を訪れる。いくら百五十人までとなっていても、一週間待た
されたひとびとが二百人も三百人もやってくるのである。

クオータ外の番号札をもらったひともたいていは、受付窓口が閉められて「今日はもう終
わりです」という声がかかるまで、諦めて帰宅することはしない。順番は順番として存在
しているものの、患者を目前にしている現場では経営者の冷徹な決断よりも人間的な心情
が働く可能性が高いということなのだろう。

さまざまに流動的な要素が働く結果、百六十八番の番号札でも、その日の診療を受けるこ
とができるケースもある。その面を見る限りは、インドネシアで決まりが決まり通り運営
されないことの是非を云々してもはじまらないということになるだろう。ロボット化を拒
む人間たちの社会は常に、無秩序・混沌と隣り合わせということのようだ。[ 続く ]