「プルンプアン(1)」(2019年05月20日)

インドネシア語を学び始めたころ、はじめて女、つまり女性、を意味する単語に遭遇して、
その音の響きの珍妙さに違和感を抱いた日本人は稀でないにちがいない。その単語がプル
ンプアン(perempuan)である。

耳で外国語に親しんでいない人間には、耳に聞こえた外国語の音を自分の母語が持ってい
る音感に付随している美醜や倫理観に結び付けようとする作用が起こりがちだ。日本語が
持っているプルンやプアンという音の響きに合わせて、軽薄な印象や猥雑な感触を抱いて
しまうことは大いにありうるように思える。

それは、外国語という異文化の産物を自分が知っている狭い知識体験で評価しようとする
小人精神の表われであり、自分の知らない世界があの向こうに存在しているのだという視
点の高みを持たない独善性がもたらしているものであるにちがいない。

どんな外国語でもいいから、それを体得し、自分の母文化とは異なる価値観が体系的に存
在していることを一度でも体験した者には、外国語を学ぶときにそのような現象が決して
起こらないだろうことを、わたしは確信している。

同時にプルンプアンという音の響きに対して日本人が抱く感触が他の言語を母語としてい
るひとびとと似通っているかどうかについては、これは言語のユニバーサル性に関係しな
いことがらであるために、日本人特有のものだろうとわたしは解釈する。

ちなみにマレーシア語でスピーチの冒頭に言われるTuan-tuan dan Puan-puanのプアン
はそのプアンであり、わたしはプアンという響きに濃厚なまろやかさのしみ込んだ審美感
を感じ取る。メガワティ第五代大統領の娘の名にその言葉を見出したときのわたしの印象
は決して悪いものでなかった。


現代日本語というのは音韻構造的にかなり貧しい言語であるようにわたしの目に映ってい
る。世界の諸言語で使われている音の中に日本語で使われない音がたくさん見出されるこ
とや、よその言語では異なる音として識別されているものが日本語ではひとつの音に含ま
れる類音として判別されていることなどが、その貧しさを証明しているように思えてなら
ない。

たとえばもともと五十一音あったように理解されているカナ文字の中で、識別されるべき
音を表す文字が現在どれだけ生き残っているかという点を見ても明らかだろう。それを見
るだけでも、慣用的に使われている日本語の音は減少していると誰しも思うにちがいない。

音韻構造の貧しさというのは、口語の貧しさにつながる。日本人が文字を重視して音の世
界を軽視してしまい、口語の発展をか細いものにしてしまっていることは、日本語と外国
語を対比させながら日本語を取り扱う人間には見えすぎるほど見えているはずだ。行き着
くところは「もの言わぬ」、主張や説得の乏しい協調倫理の世界であり、寡弁に価値が置
かれて「腹の底を探り合い」、言外に意中を知るといった諸芸が大手を振る時代が続いて
きた。[ 続く ]