「プルンプアン(5)」(2019年05月24日)

プルンプアンは純粋のムラユ語源ではあるが、その語義は語彙論専門家の間で諸説に割れ
ている。たとえばHフォンデヴァルやウィルキンソンは語根をempuと想定している。

empuの語義はibu(母)、tuan(ご主人様)、ahli(専門家)、pemilik(所有者)で、そ
れがempunya→punyaという単語を派生させ、またpuanという語を生んだ。マレーシアの
諸王国宮廷で現在も使われている古典ムラユ語には、raja perempuanやdatuk perempuan
といったボキャブラリーもある。

近い語形のものにtengku empuanやdatuk empuanというものもあり、それらの言葉は明
らかに高位のヒエラルキーに対して払われるべき敬意を含んでいる。ところがムラユ語
の中にも女性を蔑む語感で使われるケースが、perempuan jahat, perempuan plesiran, 
mencari perempuan等々の形で現実に存在しているのだ。

一方クリンカートら別の言語専門家は、ampuを語源として変化したものとそれを見なして
いる。アンプとは娘がアウラッを覆い隠すことを指しているというのがその説明だ。クリ
ンカートはフォンデヴァル説を、あまりにも詩的で文法的にも不正確だと批判している。

どの言語であろうがもちろん、すべての単語は明示的語義、つまりそれが持つコンセプト
に関するありのままの語義を持っている。誰が使おうとも現代インドネシア語でブティナ
は「動物で子や卵を産むもの」の意味を持ち、プルンプアンは「子供を産む能力を持つ人
間」、ワニタは「成人したプルンプアン」を意味している。

だが時に言葉は、主観的且つ使用者(個人であれ集団であれ)次第で異なる暗示的意味を
持つことがある。現在、ある特定のひとびとにとってワニタはプルンプアンよりも上品な
ニュアンスを含んでいる。歴史的にブティナはペジョレーションが起こって母性を意味し
ていた語義が「動物で子や卵を産むもの」に劣化した。反対にワニタはアメリオレーショ
ンが起こり、品格が優れたより良いもののニュアンスを持つようになった。

それがわれわれの言語に起こっている状況だ。その進展に即して、客観的な姿を描写する
場合に筆者はワニタを使うよう勧めたい。もっと高い敬意を含むibuやputriという言葉が
あるにはあるが、それらはまた異なる語感を持っている。元々あった言葉を使えばいいの
だという意見をお持ちの方がいるのなら、プルンプアンでなくて母性を意味するブティナ
まで話が行ってしまう。

「世界のブティナは団結せよ!」などと筆者が言おうものなら、プルンプアンの皆さんに、
いや、間違えた、ワニタの皆さんからお叱りを受けるのは間違いあるまい。[ 続く ]