「プルンプアン(8)」(2019年05月29日) ber-の付く動詞のパラダイムは次のようになっている。 A.bertani-petani-pertanian bertani = 農耕する petani = bertaniするひと pertanian = bertaniすること B.bermukim-pemukim-permukiman bermukim = 居住する pemukim = bermukimするもの permukiman = bermukimする場所 上の例では行為者がper-にならずにpe-になっているが、これは/r/音が消失したためだそ うだ。確かにper-を早口で発音したり、/r/の音を軽く発音していると「プル」が「プー」 になっていく。つまりber-のパラダイムにおける行為者のpe-はper-が変化したものであ って、me- ⇒ pe-のパターンではないということらしい。 現代インドネシア語ではber-のパラダイムもme-のパラダイムも、行為者はpe-が付けら れるパターンが常識化しているため、pe-行為者の中に自動詞行為者と他動詞行為者が混 在することになる。これは形式を簡素化させたために意味が複雑化してしまった現象の 一例だろう。たとえばpetani(←bertani)とpenyatu(←menyatu、bersatuのpe-形である pe(r)satuは存在しない)は明らかに主体者のポジションに違いがあるのだ。 しかし例えばバリ島で村長を意味するperbekelという語は、アントン・ムリヨノ博士の パラダイムによく似た形を示している。 C.berbekel-perbekel-perbekelan berbekelはほとんどperbekelと同じ用法で使われており、バリ語での生活体験を持たない わたしにはその語感の差が体感できないのだが、ともあれper-が付いて自動詞行為者にな り、そこに-anが付けられることによって行為者が抽象化されて仕組み・組織・領域など を表す言葉になるというパラダイムは博士が標準化したものと同じだ。 既述の例に合わてempuのパラダイムを作るとこうなる。 D.berempu-perempu-perempuan ところがberempuはKBBIに存在せず、アチェのガヨ語でpemilikの意味を持っており、 perempuはKBBIにもガヨ語にも見当たらない。C.の例でberbekelとperbekelがほと んどイコールの関係にあったことを思い出していただきたい。 バリ語ではberbekelがperbekelに集束して行ったのと反対に、ガヨ語ではperempuがbe- rempuに集束したと仮定するのは想像をたくましくしすぎているだろうか?perempuan がその延長線上にあるとするなら、この語が持っている含蓄はオーナーシップへと向かう ことになるだろう。女権活動家の主張はそこに実を結ぶことになる。[ 続く ]