「ダゴの滝とシアム王の石碑(2)」(2019年06月04日)

ラマ五世は1896年にも蘭領東インドを訪れている。そのとき高原都市バンドンでちょ
っとした事件が起こったが、どうやら大騒ぎになることなく治まったらしい。宿舎サヴォ
イホマンホテルからある夜、国王の姿が消えたのである。

そのときラマ五世はダゴの滝に単身赴いて瞑想にふけっていたのだという説がそのあと流
れたのだが、ずっとあとになって出版された国王の行動録によれば、ロンゲンの歌舞を観
賞しに出かけたらしい。

旅行中の国王の行動は随行員がメモを取り、それを記録文書にするのが決まりになってい
るようで、ラマ五世の東インド視察旅行の記録が数十年してから出版されて国民の目に触
れることになった。

国王がダゴの滝を観光したときは、王はまずホテルから輿に乗って出発し、そのあと馬に
乗り換え、最後は徒歩で滝に到着した。静かで心地よい自然の雰囲気を楽しんでいる時に、
国王は岩のひとつにタイの年号を使って訪問した年を書いたそうだ。そのときにラマ五世
が瞑想を行ったかどうかについては何も書き残されていないために、瞑想はしなかったの
ではないかと見られている。


ラマ五世は蘭領東インドを1871年、1896年、1901年の三回訪れているという
記事が目に付くのだが、大ユーフォリアを巻き起こした最初の訪問に関する長編詩が18
70年となっているため、正確にどうなのかはよくわからない。

そのあとダゴの滝を訪れたタイ国王は1925年に王位に就いたラマ七世で、かれは19
29年に父王の残した碑文を見ようとして蘭領東インドを訪れ、わざわざダゴの滝に出向
いた。そしてラマ七世が別の岩に碑文を彫らせたから、シアム王家の石碑がダゴの滝にふ
たつ作られるというハプニングになったわけだ。

そのころ世界の科学技術と経済メカニズムの発展は目覚ましいものがあり、イギリスに直
結しているシンガポール、オランダに直結しているバタヴィアはヨーロッパの進度がすぐ
に入って来るアジアの展覧会場と呼んで過言でない座を占めていた。[ 続く ]