「クントガンに想う(2)」(2019年06月11日)

欧米系言語の学習なら必死になってネイティブの発音を習得しようと努める傾向を持つ日
本人がインドネシア語に対してはどうして頭から原音を無視しようとしてかかってくるの
だろうか?どうせインドネシア人と会話することなどないのだから、同好の日本人同士で
意味が通じればよいのだ、という視野の狭い観念がそこに横たわっていないだろうか?

たとえばインドネシア最初の自動車専用道ジャゴラウィJagorawiを日本人がジャゴラビと
書いているのを知ってわたしは驚いた。あの固有名称をJagorabiもしくはJagoraviと発音
するインドネシア人はわたしの周囲にも、テレビラジオの中にも、ひとりもいない。ネイ
ティブの発音と同じように、日本人もローマ字読みして自然にジャゴラウィと読めばよい
のではあるまいか。いったい何のためにそのようにひねくれた行動をし、後続の日本人に
誤ったことを覚えさせようとするのだろうか?わたしはいまだにその現象の裏にある謎に
戸惑っている。


ともあれ、その種の狭い視野の観念に関してわたしには、いつまでたっても中国語の地名
人名を日本式音読みで読んでいる日本人の姿がそこにオーバーラップして見えて来る。

今や世界の地名人名発音とその表記は標準化の流れに乗っていて、アルファベットで書か
れる場合は原語もしくは原音に近い形で表記されるようになっている。Xi Jinpingという
言葉を知らない日本人がshuukinpei(習近平)と発音して外国人と時事談義をしようとし
ても意思疎通は困難だろう。

どうせ外国人と外国語で時事談義などしないのだから、「しゅうきんぺい」で通じる同好
の日本人と会話できればそれでよいとでも言うのだろうか?狭い島国の外へ出ようとする
日本人はそれほどまでに少ないのだろうか?

わたしは決して民族主義的視点からこの説を談じているのでなく、功利的な見地から述べ
ている。アメリカ人もフランス人もスリランカ人もインドネシア人もXi Jinpingと言い、
Guangzhouと言っているのだから、日本人も同じようにそれらの固有名詞を同じ発音で覚
えれば、外国でなにひとつ困ることはない。それをわざわざ日本語と国外用の二系列にし
て覚えることの無駄をわたしは指摘しているのである。

もちろんそれは狭い島国から外へ出ようとする日本人にとっての効率でしかなく、狭い島
国の中に安住鎮座して生涯を終えるひとびとにとっては何の効率にもならないのが明らか
だ。その視点から日本人というものを見る限り、日本人はそういう民族になろうとしてい
るようにわたしには思われるのである。[ 続く ]