「kamiとkita」(2019年06月11日)

ライター: 国語教員、グナワン・ウィビソノ・アディダルモジョ
ソース: 2001年3月3日付けコンパス紙 "Istilah Kami dalam Bahasa Indonesia"

Dirgahayuの語が創立や生誕の記念日を祝うために頻繁に使われている。その言葉の中に
「selamat ulang tahun」という意味が含まれていると大勢のひとが思っているからだ。
ところが実際、それは正しくない。その言葉が意味するのは「semoga panjang umur」
なのである。

その誤解を常識にしてしまったdirgahayuの語の使用がますます広まっていることを思え
ば、その語に新しい意味を持たせようとしているひとびとがいるということが言えそうだ。
つまりdirgahayuの語義を「semoga panjang umur」から「selamat ulang tahun」へ替え
たいひとびとがいるということになる。

その考え方は一見、十分に合理的であるように思われる。その結果、誤解を常識にした
dirgahayuの用法がますます拡大するのはおかしいことでなくなる。だがdirgahayuの語義
を変えるという考え方は本質的にインドネシア語の貧困化に向かうステップなのだ。なぜ
なら「semoga panjang umur」という観念を表現する言葉をインドネシア語は失うこと
になるからだ。その点において、dirgahayuに新たな語義を与えるという見方は合理的で
あるという思考法は拒否される。


インドネシア語に対する貧困化傾向は「kami」と「kita」という語の用法にもうかがうこ
とができる。たとえ世界中のどの言葉であれ、われわれはもっとも豊かだとかもっとも貧
しいということを言えないにせよ、われわれインドネシア語話者はインドネシア語にkami
とkitaという単語があることを誇りに感じる。英語であれば、その両単語に該当するのは
ただひとつweなのである。kamiとkitaという単語が意味する観念を表すのに、英語では
weという単語を使うしかないのだ。

しばらく前からインドネシア語話者の間に、kitaが不適切な使われ方をする傾向が現れて
いる。その実例を示そう。ある有名なシネトロンスターがインタビューの中で、記者の質
問に答えてこう語った。Kita akan menikah paling lambat tahun ini.

kitaという単語の語義に従うなら、そのシネトロンスターはインタビュアーと年内に結婚
するということを公表したことになる。ところが実際には、シネトロンスターの結婚相手
はその隣にいて世間はそれを承知しており、シネトロンスターがインタビュアーと結婚す
ることなどありえない状況になっているのである。

その傾向は、国政高官の間にも起こっている。最近あらたに起こった問題に関連してある
国政高官は記者の質問にこう答えた。Untuk itu baru akan kita rapatkan minggu depan. 
はっきり言って、その会議に記者が加わることなどありえない。


「kami」と「kita」という単語は一人称複数代名詞である。その違いはkamiがエクスクル
ーシブであるのに対し、kitaはインクルーシブであるということだ。そのためにkamiとい
うのは聞き手や読み手を含まない機能を持ち、kitaは反対に聞き手や読み手を含むのであ
る。

今現在起こっているkitaの誤用が継続されれば、kamiという単語がインドネシア語体系の
中から消滅してしまう日がやってこないともかぎらない。もしそうなってしまったなら、
英語など他の言語になかったコンセプトを持っていたインドネシア語の豊かさがやせ細っ
ていくのである。だからこそ、インドネシア語話者がインドネシア語の貧困化を望まない
のなら、kitaという語を正しく使用する以外にそれを避ける道はないのだ。